その日、屯所はちょっと賑やかだった。

 
花、愛でる 01


 

うららかな風に、緑が青々と芽吹きはじめた日だった。
朝の雑事を終えた千鶴は、屯所まわりの桜が美しく咲き誇るのを、なんだか誇らしい気持ちで眺めつつ、廊下を歩いていた。この季節はいい。日々を過ごすだけで癒される気がする。
と、日当たりのいい縁側に、茶色い人物が寝転がっている。
いくら、屯所の奥は幹部連中しかいないとは言え、こんなにも全開でくつろげるのは一人だけだ。その唯一の茶色い人は、足音を聞きつけてか、ひょい、と顔だけをこちらに向けてくる。
「千鶴ちゃん。なにしてるの?」
だらりと寝そべる体勢を崩す気はないらしい。床に散った髪が、陽を集めて光った。
「沖田さん……沖田さんこそ、今日はお昼から巡察ですよね?」
「うん、そうだけど?」
こんなにだれていていいのかという気持ちを込めたつもりだったが、彼は悪びれずにあっさりとうなずいた。
千鶴のほうは、別段さぼっているわけでもなく、日課である洗濯を終えてきたところだ。腕に抱えた空の籠が、沖田の顔に影を作る。
彼は、縁側に腰掛けてからごろりと体を倒した形で――つまり、廊下を完全に塞いでいる。跨いで通ることもできないし、かなり邪魔だ。
「あの……通ってもいいですか」
「――ねえ、花見しようよ」
「…………」
さらりと無視され、思わず沖田を睨む。彼はいつもどおりに飄々と笑んでいる。
「こんなにいい天気なんだしさ。やろうよ」
縁側から庭におろした足を、ぶらぶらと振る沖田に、どこの駄々っ子だ、と言いたいのを飲み込む。そんなことを言ったら、意地でもどいてくれないだろう。
でも、提案は魅力的だ。確かに、千鶴もお花見はしたい。
「お花見ですか?」
「そう。屯所だって、悪くない環境じゃない?」
「まあ、確かに……綺麗ですもんね。やりたいですね!」
「でしょ。ね、今日がいいな。今日やろう」
言いつのる沖田を遮るように、横の障子がスパン!と開いた。
「っと! なんだ総司、踏まれてえのか」
「やだなあ土方さん。僕なら、踏まれる前に斬れますよ」
「やってみろ。返り討ちにしてやる」
いつも厳しい顔を隠さない鬼副長をからかえるのは、沖田だけだ。
いや、別にからかっているという意識はないのかもしれないが、言動のひとつひとつが、とてもよく土方を怒らせる。
「……で? ふざけてねえで、とっとと巡察の用意しやがれ! お前んとこは昼の担当だろうが」
「いつもそんなに怒ってたら、隊士に嫌われちゃいますよ」
「うるせえ。お前よりマシだ」
「静かに桜を愛でられない、寂しい人よりマシだと思いますけど」
「はあ?」
ぎろり、と眼光鋭く睨みつける土方を軽くかわして、沖田はひらりと立ち上がった。
「やれやれ、ここは誰かさんがうるさいからもう行きますよ。
――じゃ、千鶴ちゃん、お花見の準備よろしくね」
「え? えええ?」
半ば呆れながら会話を傍観していた千鶴は、あわてふためいた。
それはつまり、この機嫌の悪い土方さんから、宴会の許可をもぎ取れということだろうか。
すでに廊下の向こうに消えかけている沖田の後姿を、恨みがましく見やってから、ちらりと土方に目をやる。
「……」
「……」
「…………」
「……何か、言いたいことでもあんのか」
「……いえ!!」
よし、大丈夫だ。いつもに増して機嫌が悪い。
愛想笑いをしながら、千鶴は頭をフル回転させた。

――――とりあえず、外堀から埋めるほうがよさそうだ。

そう判断し、まずは全力でその場を去ることにした千鶴だった。


□■□■□


――というわけで、局長の意向を確認したところ、むしろ大乗り気で賛成されてしまった。
沖田の希望に沿えたのはよかったが(無視するのは怖すぎる)、土方はやはり苦い顔で、上機嫌の近藤がいなければ説得はできなかったかもしれない。
準備や会議の関係から、夜桜をゆったりと楽しむことになり、屯所中に伝令がまわされた。
お陰で、午後の屯所は、一足先に、盛り上がった気分を隠せていない。
一番盛り上がっているのは、永倉・原田・藤堂を中心とする集団だ。彼らは夜桜まで待つような忍耐はとうに放棄し、青空が広がる時間から、もうずっと飲み続けている。すでに幾人か沈没しているのも、ときおり奇声が上がるのも、ご愛嬌と言えなくもない。
もちろん酒を飲んだことがなかった千鶴は、飲む側には参加せず、厨と庭を行き来しながら、肴の準備に勤しんでいた。とはいえ、人数も食欲もかなりの集団を相手に、用意した肴がほぼ一瞬でなくなるのが切ない。
「おーい、雪村。こっち、肴なくなったんだけどよー」
「はいはいはーい、今すぐ!!」
何度目かの催促に、千鶴はなかばヤケクソで叫んだ。干物はもっと味わってほしい。
軽くなったお盆を手に、ざかざかと廊下を戻る。いっそ塩だけ出して肴にさせるのもいいかもしれない。

と、正面の襖が開いて、近藤と土方、井上、山南が顔を出した。どうやら、幹部会議も終わったらしい。
「お疲れ様です」
「おお、雪村君。もう、宴もたけなわといったところかな?」
近藤と井上が、ほほえましそうに庭を見やる。対照的に、土方は眉間のシワが濃い。彼は黄昏れはじめた空を見て、鋭く舌打ちした。
「っつーか、奴ら昼間っから騒ぎすぎだろ……!」
「まあまあトシさん。今日の巡察は彼らじゃないのだし、こんないい陽気なんだから、大目に見てあげようじゃないか。
ああ、桜が本当に美しいね」
「それは、確かに。これでは、さぞかしお酒もすすむことでしょう」
「はい、その……お酒も肴も、たくさん出してます」
「雪村君も、お疲れさまです。あんな隊士たちを相手にするとは、大変ですね」
言う山南も、苦笑に留めている。今夜は無礼講ということだろう。
彼らがなんだかんだと言いつつも、花見――もとい、宴会へと向かうのを見て、千鶴も急いできびすを返し、厨を目指したのだった。


□■□■□


そして、月が美しく見えはじめた頃。
巡察を終えた沖田や、鍛錬に精を出していた斉藤も揃って顔を見せ、皆で夜桜を楽しんでいた……はず、だったのだが。
一体どうしてそういう流れになったのか。
酔っ払いたちに筋道を求めるほうが無理というものだが、とにかく千鶴はワケもわからず困った事態に追い込まれていた。

いわく。

「屯所には華ってもんが足りないよな! よし、じゃあ――雪村、直嗣、お前ら女装して来い!」

………………。

「…………はい?」
「ちょっ、喧嘩売ってんスか!!」
とっさに意味を取れずにポカンとした千鶴を尻目に、新人隊士・直嗣(見た目は小動物系)が憤慨して叫んだ。
いやーだってなあ、と答えになってない返事を繰り返しつつ、無駄な期待に盛り上がる隊士たち。
女の着物を着たって、男は男だ。そんなの逆にむなしいんじゃないだろうか、と思ったが、千鶴は賢明にも黙っておいた。やってみなきゃわからん、などと言われたら反応に困る。
ふと直嗣を見やると、刀の鍔をちん、と鳴らし、わりと本気の殺気を漂わせていた。彼は小動物の中でも、鋭い牙とか爪とかを持っている種族に違いない。
これでも懲りずにちょっかいをかけ続ける猛者は、組長格だけである。
藤堂が、自分の刀を掴みつつ野次る。
「直嗣、刀抜いたら減俸すんぞーっつか俺が相手になんぞー」
「――藤堂組長までやつらの味方ですか!!?」
「そうだぞ、平助。むしろ、体つきからすりゃ、お前が代わってやればいいじゃねえの」
「はあ? やめとけよ新八。酒が不味くなる」
「うっわ、左之さんも新八っつぁんも、色々ひでえ」
と、話が自分から逸れたところで、千鶴はこっそりとお盆を持って立ち上がった。逃げるが勝ちというやつである。が、酔っ払い集団の絡みはしつこい。
「よし、じゃ、雪村いけ!」
「おお、直嗣より動きが上品だしな!」
どーせ俺は下品ですよ!という直嗣が、一同の爆笑を誘う。ただ一人、ひきつり笑いを浮かべた千鶴は、そろそろりと後ずさった。
「あっ、えっ、その、、そうだ、肴を足して来ますね!」
我ながら下手な言い訳だ、と思ったが、案の定ひとりの隊士にがしっと腕を掴まれた。酔っ払いのくせに、動作はやけに素早い。
「肴なんて後でいいから来い! おーい、監察方の部屋借りるぞー」
と、すたすたと歩き出そうとする。
「ちょ、ちょっと……!!」
まずい。
これはまずい。
千鶴や幹部たちが今まで隠していたことが水の泡だ。
いくらなんでも、女の恰好をして、女の仕草をして――さすがに、ばれるに違いない。というか、それで性別がばれないようなら、ちょっと傷つく。
とはいえ、ぐいぐい引っ張る隊士の力は強く、千鶴の力では本当に止められなかった。渾身の力を込めても、引きずられてしまう。
酔っ払っていなさそうな幹部に助けを求めようと辺りを見回すと、口の端をすこし上げた沖田と目が合った。

「あれ、おかしいなあ」

そのまま沖田の声が、宴会場にぽつりと響く。特別大きい声でもなかったが、よく通る声だった。
自分たちのほうを見られていると気づいたのか、千鶴の手を掴んだ隊士は、ぴしりと動きを止めた。
言葉を落とした沖田は、笑顔に見えなくもないが、よくよく見ると目は全然笑っていない。
(……怖……!!)
斉藤や土方ではなく、まっさきに沖田と目が合ってしまったことを、少し後悔する。
沖田はこういう馬鹿騒ぎは好きでも嫌いでもないはずだが、どうやら今日は、結構機嫌が悪いらしい。楽しみにしていた花見をぶち壊すな、手間を掛けさせるな、ということだろうか。
「……ねえ、土方さん」
土方は「巻き込むな」と言わんばかりに迷惑そうに眉をあげたが、もちろん沖田は構わない。
「そういうのって、新選組じゃ言いだしっぺがやるのが普通ですよね?」
そのままの冷たい笑顔で、刀に軽く手を添えているのが、なんとも怖い。
「……ま、そうだな。言い出した奴が責任とらねえってのは聞いたことねえ」
「ですよね。おかしいなあ。
それであまつさえ、土方さんの大・切・な・小姓を連れて行くなんて、ありえないですよねえ」

…………。

――――ぴしり、と宴会場が固まった。

沖田が、明らかに「大切な小姓」を強調して発音したことに、千鶴(見た目は男)は頭を抱えた。
――これでは、あらぬ誤解を招くではないか。
「……てめえ、何考えてやがる」
「別に何も。ほんとのことでしょう」
口元だけで笑んだ沖田を、静かに杯を置いた土方が睨む。
「……てめえは、ほんとにどうしようもねえな――まあ、いい。
おい、雪村、ちょっと来い!」
「は、はいっ!?」
突然呼ばれた千鶴は、ゼンマイ仕掛けの人形のように、ぴんと背筋を伸ばした。硬直した隊士から腕をもぎ離し、転がるように土方に駆け寄る。
と、辺りがざわめいたのを見て、誤解を広げたことに気づき、赤くなった。
それを見た土方が、苦々しくため息をつく。
「てめえら、女が見たいなら外行け、外! そうじゃねえなら、言いだしっぺが責任取って女装でもなんでもしやがれ」
ええー!!と上がった不満の声を、ひと睨みで黙らせて、土方は酒瓶を手に立ち上がった。どうやら、ここで一旦引き上げるらしい。「あとは元気な者たちでやりなさい」と井上がそれに続きつつ、千鶴を振り返った。
「中庭にね、一本だけだが、綺麗な桜があるんだ。雪村君も、そこで飲みなおさないかい」
「え……いいんですか」
「もちろん」
「では俺も」
「あ、じゃあ俺も!」
「俺らも行くか」
離れて座っていた幹部も、ぱらぱらと集まってきた。
彼らが、宴会場から千鶴を避難させようとしてくれているのが分かる。
土方にしろ、男色家だと思われることはかなり屈辱なはずだが、千鶴を避難させるほうを優先してくれたのだ。
と、千鶴の手を、大きな手が掴んだ。そのまま、屯所の奥へと引っ張っていく。さっきよりも強く掴まれているのに――不快な感じはまったくない。
「あの――ありがとうございます!」
前を行く背中全員に声を掛けると、手の持ち主が少しだけふり向いてくれた。
「いいから、行こう。せっかく源さんのおすすめなんだから」
見上げた沖田の顔は、いつも通りの――少し意地悪そうな――笑顔だった。





……ちなみにその向こうでは、せっかくの夜桜が台無しになるような、景観のよくない女装劇が繰り広げられつつあった。
 
 
 
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