井上に先導されて行ったところは、裏庭にある井戸の、さらに裏手だった。
桜の大木が一本だけ、月光を受けて佇んでいる―――夜桜ならではの、神秘的な美しさだった。
声もない千鶴をよそに、皆はめいめいで勝手な場所を陣取りはじめる。
千鶴を引っ張ってきた沖田も、手を離して桜の真下へ行ってしまった。あ、と思う暇もなかった。
そのまま立ち尽くしていると、井上が肩をぽんと叩いてくれる。彼の声はいつでもやさしい。
「雪村君も、好きなところに座るといい。
ここは以前、偶然見つけてね。まあ、昼はそうでもないんだが――夜は綺麗だろう?」
「はい……本当にありがとうございます」
「いやいや、そうやって笑ってくれるのが、何よりだよ」
そう言ってほほえんでくれる井上は、あたたかい。
意気揚々と酒瓶を振り回しつつ、先頭にいた藤堂も、立ち止まった千鶴を気に掛けて戻ってきてくれた。隣にどかっと腰を下ろし、ちょっとくらい飲め、と酒を注いでくるので、お猪口を差し出してみる。
――掲げた左手には、まだ沖田に掴まれた感覚が残っている。
藤堂の肩越しに、ちらりと沖田を見やると、彼は手にした酒を自分でなみなみと注いでいた。先ほどもけっこうな量を空けていたし、本当にこの幹部連中はウワバミだらけだ。
「じゃあ」と近藤が軽く杯を掲げると、かちりと乾杯する。先ほどとは違う、もの静かな花見は、こうして始まった。
花、愛でる 02
もの静かな――などと思ったのはほんの初めだけで、すぐにその場は喧騒に満ちあふれることになった。主な原因としては、昼から飲み続けているツワモノ三人である。
向こうで腹の傷を披露しはじめた原田と冷やかす永倉をよそに、藤堂は千鶴に酒を勧めまくってきた。
「千鶴! 飲んでるか!!?」
「う、うんまあ……」
「そんな辛気臭い飲み方してんなって! この酒はこう、がーっと飲んで、喉がきゅーっとなるのがイイんだからさあ」
「そういうもの…?」
うかつに杯を空けると注がれてしまう。
千鶴は一応飲んでいるフリをして、チビチビと舐めるに留めた。
からい。そしてお酒くさい。初心者には結構つらい味だ。
上機嫌の藤堂が、何くれと話しかけてくれる――絡み酒だ――のに相槌を打ちつつ、助けを求めて視線を泳がせたが、あいにく沖田としか目が合わなかった。
対角線上で、沖田が目を細める。彼の背後に咲き誇る桜が、笑顔をより冷たい印象に見せた。
「…………はは、総司も言うように…………」
「そうですか?」
「……ああ、これなら……」
笑ったのか、睨んだのか、それ以外か……分からなかったが、とにかくこちらを助けてくれる気がないことは確かだ。
それでも、耳が。
勝手に、沖田の声を拾ってくる。
「……ツさんも……だろう……」
「やめてくださいよ、近藤さん。あのひとなら絶対怒ります」
「…………おー、一回怒られろ…………さんの言うことなら…………」
聞かないように、見ないように。隣の藤堂の話に集中しなければ――と思えば思うほど、沖田の声ばかりが耳に入ってくる。土方や近藤の声は途切れ途切れにしか聴こえないというのに、この違いはなんなのだろう。
千鶴が沖田の隣に座ったら絶対にからかわれ通しで終わっただろう。
そうに違いない。
でも。
(……でも、隣に座りたかったなあ……)
手を離されたときに、呆けていないでついて行けばよかった。
自分の左手首を、右手で握ってみる。
「……だよな、千鶴!!」
「えっ?!」
突然藤堂に同意を求められ、千鶴は焦った。
しまった。
全然聞いてなかった……!
「あっうん、そうだね」
と、とりあえず適当な相槌を打ってみると、藤堂はますます盛り上がってくる。
「だっろ?! じゃあさあ、いつならいい?」
「……え?」
「着物、なくはないんだろ? それとも、一着も持ってない? 山崎くんに言ったら、内偵用のを貸してくれると思うけど」
何のことか分からず目を白黒させる千鶴の横に、腹芸をしたままの原田が出現した。
「おお、俺も賛成だな。山崎なら、綺麗な着物持ってんだろ。な、千鶴、このむさ苦しい場に華を添えると思って、着てきちゃあくれねえか」
「!??」
どうやら、話は女装話に戻っていたらしい。
千鶴はうかつに頷いたことを反省した。そんな気恥ずかしいこと、出来ようもない。
それに、土方さんが気づいたら、怒られるのがオチだろうし(お前、俺が説いた男装の重要性を、全く理解してねえのか!などと怒鳴られるに違いない)、向こうでにやにやと見ている沖田の顔もなんだか怖い。絶対、こっちの会話は聞こえているのだろう。
悪意のない酔っ払いたちを前に、どうやって穏便に断るか、千鶴は奮闘するハメになったのだった。
□■□■□
そんな若輩組(ひとり年上)を横目に見つつ、沖田はひとり、黙々と酒を注ぎ足した。
近藤と土方が、山南を交えて真面目な話へ移行しはじめたの見て、さっさと逃げだしたのだ。何が悲しくて、酒の席でそんな話をしなければならないんだろう。
さきほどから、千鶴がちらちらとこちらを伺っていることには気づいていたが、あえてそのまま観察している。彼女の困った様子が伺い知れて、笑ってやりたいような、なんだか苛々させられるような、微妙な心持ちだ。
と、斉藤が沖田の隣に座る。
「失礼する」
沖田は、酒を飲む手は休めずに、ちらりと彼を一瞥した。
ただ来たわけではないだろう。斉藤のことだ、なにか面倒くさい用事に違いない。
その予想から外れない、硬い口調で、斉藤が口を開いた。
「総司。先ほどのような発言は慎んでおけ。もう少し、言い方というものがあるだろう」
……ほら来た。
せっかく小難しい話を回避したのに、その努力を無駄にしてくれるのが、この斉藤という男だ。
舞い落ちた桜の花びらが、ちょうど杯の中に浮かんだ。そのままぐっと杯をあおると、強めの酒が喉を焼く。苛々した気持ちが強くなった。
「何のこと?」
「……わかっているだろう。雪村のことだ」
「僕、何もおかしなことは言ってないけど。ああ言っておけば、千鶴ちゃんにちょっかいかけようって輩がいなくなって万々歳だし」
「本気でそう思うのか? 他に、いかようにもできただろう。雪村の立場も考えてやれ」
「じゃあ、一くんがやればよかったじゃない。ていうか、あそこで幹部が介入したら、誰が何を言っても同じようなものでしょ」
「違う。雪村を助けるのではなく、奴らを止めるほうに重きを置けたはずだ」
「同じだよ」
「違うだろう。言い出した者に責任を取らせる、というだけで良い話だった。だから副長も、総司の話に乗られた。それなのに何故、小姓などと吹聴した」
適当に流そうとする沖田に、斉藤は根気強かった。酒を静かに口に運びながら、口調もいたって静かなままだ。
「……ただでさえ、雪村は個室をもらっているゆえに、やっかみの的になりやすい。副長の小姓で、副長に気に入られているという噂が出れば、立場は良いようには転ぶまい」
千鶴は、平隊士の面々とはあまり親交がない。
斉藤の言うように、やっかみを受けることもあるし、単に女々しいやつだということで敬遠されている節もある。
今回のことで、千鶴と土方の間のありがたくない噂が流れたとしても、「沖田の冗談」と笑って否定することもできない。彼女には、そんな世間話を交わせるような、仲の良い隊士がほとんどいないのだ。
それは千鶴の消極性のせいもあるが――幹部がそう仕向けているのもある。
下手に平隊士と仲よくなって、接触が増えていけば、どうしても秘密保持が難しくなる。それは新選組にとって、歓迎できない事態だ。
まあ沖田から見れば、そんな千鶴を抱えていること自体がおかしいのであって――幾度、殺してしまおうと進言したことか。
「はいはい。次からは気をつけます。まったく一くんは、土方さんのこととなると世話焼きだよね。
――それとも、千鶴ちゃんのこととなると、かな」
貼り付けたような笑みを前に、斉藤がため息を吐く。これ以上言っても、聞き入れないと知っているためだ。基本的に、人の忠言を聞くような人物ではない。
そこに、空気を読んでか読まずか、いつの間にか傍に来た近藤が口を挟んだ。
「いやいや、総司。雪村君も男所帯の中、暮らしにくい場面もあるだろう。みんなで気を配ってやろうじゃないか」
内容が若干ずれているところが、近藤たるゆえんだろう。ただ、無視できない人物の出現に、沖田は眉根を下げる。
「わかってますけど。だから、もうはじめから殺――」
「こらこら、物騒な発言をするもんじゃない」
やんわりと、だが強くたしなめる近藤に、沖田も口をつぐんだ。
「我々新選組で、一度預かると決めたのだから、覆す気はないぞ。ならばその間、なるべく不自由のないように過ごさせてやりたいじゃないか。それでこそ、鋼道さんが見つかったときに、面目も立つというものだろう」
「……近藤さんの言うことに、反対する気はありませんけど」
例え、鋼道が長州方と行動をともにしていそうでも、だ。
鋼道が新選組と敵対しても、千鶴が望めば近藤は新選組に彼女を置き続けるだろう。……千鶴が間者でないだろうことは、沖田も認める。あんなに腕が立たず、とろくさく、考えが顔に出る者は間者に向かない。
「まあ、そんなわけだ。総司も少しは優しくしてやれ」
「してますよ。僕なりに」
「そうだよな。すまんな、余計な世話だった」
そう謝られると、沖田は逆に困ってしまった。この人物のこういうところに、沖田は昔から弱い。
横から、空の酒瓶を量産した永倉がちゃかしてくる。顔がかなり赤い。
「総司のはなー、わかりにくいんだよ! お前、暇なときは構いたおしすぎだろー。あと、その気がないときは冷たすぎだろー。んで、たまに殺気がダダ漏れだろー、」
「はいはいはい、どうせ僕が悪者ですよ」
指折り数えていたと思えば、ぎゃはははは!と笑い出した永倉に、沖田はとりあえず同意しておいた。酔っ払い相手にムキになって否定しても仕方がない。
「……アレだな。好きな子はいじめちゃうってことか?え?」
「ははは、新八さんじゃあるまいし」
「なんだとう? 俺はなあ、好きになった子には、とことん尽くす男よ」
語りに入りそうな永倉を避けて、席を立つ。このまま絡まれたらたまらない。
「新八さんがいじめてくるし、もう面倒だから寝ます。おやすみなさい」
後ろで「ちょっと待て総司!」とか叫ぶ酔っ払いをさくっと無視し、沖田はさっさとその場を後にした。
途中、やはり彼女の視線を感じたが、振り向くことはしなかった。
□■□■□
沖田の自室は、裏庭から少し歩いたところにある。
宴会の喧騒も届かず、静かに休むにはよい環境だった。
さて着替えるか、と帯をはずしかけたとき、彼の懐からぽろりと転がり出たものがあった。
金糸をあしらった、飾り紐だ。
暖色系の色目が明るく、美しい。拾い上げ、手の上で角度を変えてやると、金糸がきらりきらりと光り返してきた。――このさまに、なぜだかとても惹かれて、今日の巡察帰りに購ったものだ。
自分は飾り紐など、使わないし、正直興味もない。購ったはいいものの、今の今まで、忘れていた。
そもそも、なぜこれが欲しくなってしまったのか、沖田自身疑問だった。
ためしに、刀の柄に合わせてみる。
――付けたら、非常に邪魔そうだ。
ため息がついて出る――本当、一体なにをしてるんだか。
一番いいのは、この紐を使いそうな人物にくれてやることだ。沖田にも、心当たりがなくはない。この男所帯にも、ひとりだけ、女の子がいるのだから。
自分が、千鶴にこれを渡す?
…………。
………………。
やめよう。意味がわからない。
なんで、こんなものの処遇について悩んだいるんだろう、と馬鹿馬鹿しくなってきた。
深く考えるのも面倒くさくなり、沖田はそのまま箪笥に手をかけた。
適当な色の、適当な衣服が並ぶ抽斗(ひきだし)の奥には、京へ来るにあたって、姉が持たせてくれた着物が仕舞われている――なんだか惜しくて、まだ一度も袖を通していない。
その着物の影に、金の紐を滑り込ませた。
ここを引き払うことがあったら、この紐のこともまた思い出すだろう。そうしたら、今までの礼を込めて、姉にでも渡そうか。そうだ、それがいい。
寝支度をしながら耳をすますと、遠く洗い場の音が聞こえる。
千鶴が、宴会の片付けに追われている音だろうか。
自分は途中で抜けてきたが、あれからもしばらくは飲んでいたんだろう。
どうせ自分がいなければ、千鶴は近藤なり原田なり、幹部皆に可愛がられて楽しく過ごしたことだろう。
―――と思うと、何だかむっとした。
襖を開けて、廊下にすべり出る。
これといって目的があるわけでもないが………まあ、彼女の顔を見に行くくらいはしてもいいかもしれない。
□■□■□
深夜をまわった厨には、彼女以外誰もいなかった。
食器は洗い終わっており、その時点で隊士たちは解散したのだろう。が、千鶴は一人残って、布巾で水滴をぬぐっていた。
――なんとまあ、無防備な。
「さっきはなんか面白そうな話してたね」
声をかけると、細い肩がびくりと跳ねあがる。別に気配を殺したつもりもなかったが、彼女はこんなにも人気(ひとけ)に疎い。この無防備さに、何度苛々させられたことだろう。
「沖田さん――お休みになったんじゃなかったんですか?」
「別に、いいでしょ。僕が起きてようが、寝てようが、君に関係ある?」
「いえ、、」
口ごもる千鶴に、少し溜飲が下がる。
沖田が戸口に軽く身を預けると、千鶴も布巾を置いた。話をするならきちんと向き合う。それが、千鶴だ。
びくびくと話題を待つ千鶴に、沖田は話を戻すことにした。
「それで君はさあ、女ものの着物、本当に一着も持たずに来たの?」
「え? あ、いえ。さすがに少しはありますが……あの、やっぱり聞こえてたんですか?」
「……やっぱりって、なに?」
にこり、と笑ってやると、千鶴は黙った。
もちろん藤堂たちとの会話はほぼ聞こえていたが、とくに告げる必要もない。
「まあ、左之さんの言うことにも一理あるよね。屯所には華がないし。今度見せてくれるんでしょ?」
「え――?」
ぽかん、と口を開けた千鶴に、さらに沖田がたたみかける。
「大丈夫、もし誰かに見つかったら、この人女装趣味があるからって僕が言っといてあげるから」
「……女装趣味じゃありません!」
途端、顔を赤くして怒ってくる千鶴を見ると、何だか笑えてくる。
この小さい生き物は、感情表現が豊かだ。見ていて飽きない。
「絶対沖田さんの前ではやりません!」とぷりぷりしつつ、食器に向き直る千鶴の背後に、沖田は顔を寄せた。吐息がかかるほどの距離にしてみたのは、嫌がらせか、それとも――。
「やってくれるよね?」
がちゃり、と彼女の手元から皿が落ちる。
「――楽しみにしてるよ」
土方さんには内緒でね、と付け加えるのも忘れない。
沖田が身を引くと同時に、ぱっと赤くなった千鶴が振り返った。
その顔を見てようやく、どうして厨へ来たくなったのかが分かった気がした。
――そうだ。自分は彼女のこういう顔が見たかったのだ。
赤い顔で睨んでくる(が、ちっとも怖くない)千鶴に手を振って、沖田はその場を後にした。
大声で笑い出したいような。
こっそりと秘めておきたいような。
不思議な充足感とともに、彼は上機嫌で自室へと帰りついたのだった。
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あとがき
沖田×千鶴…? まだまだつんつんの沖田さんでした。
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