彼女と共に行動しはじめて思ったことは、「なんてちんまりした生き物なんだろう」ということだ。
 よく遊んでいた子供たちとはやはり違う。
 もちろん芸妓とは雰囲気もなにもかも違う。
 よく動き、よく笑い、泣き、沖田のために怒る、小さい生き物。沖田は背が高いほうだったから、なおさらだ。
 小さくて――弱い。いつ殺されても、おかしくないほどに。
 
 
 
たそかれ 01

 
 
 
 その日沖田が目を覚ますと、いつもと違って、千鶴の姿がなかった。
 すぐには気配を掴みとれない自分自身に、彼が苛々するのは毎日のことだ。
 沖田は、目を閉じ、ふかく呼吸してみた。――やはり家も中からは、千鶴の気配が感じられない。
 ふらり、と起きて襖を開け、感覚が正しかったことを確認し、ため息をついた。無駄な体力を使ってしまった。
 先日、千鶴の血を飲んで以来、沖田の怪我は大分良くなっていた。けれど、本調子にはほど遠い。常に戦闘の中心にいて磨かれた感覚は、戦場を遠のいたことで鈍ってしまっていた。
 それに、千鶴の気配は、なぜだか格別に掴みづらい。彼女が近くにいようがいまいが、もやがかかったように漠然としか感じられないのだ。
 一方山崎がこの家にいるときなど、彼の気配に気が散って眠れないから、つくづく彼とは合わない、と再認識したところだ。
 
 ごろりと布団をかぶり直すと、銃で撃たれた傷が痛んだ。羅刹だというのに――結局こうして役に立たない自分に、吐き気がする。
と、布団の脇に書き置きを見つけた。
 いわく、
 
「洋服を受け取りに行って来ます。丈を直したりするようなので、少し遅くなるかもしれません」
 
 沖田はもう一度ため息をついて、大の字になった。江戸で新選組が贔屓にしていた呉服屋は、ここから近い。どうせ山崎が送迎するだろうから――彼は腹が立つほど千鶴を大切にしている――心配もあるまい。それより、彼女がいないなら、少しでも寝て回復しよう。
 彼は、落ちてくるがままに瞼を閉じた。
 
 
 
 ■□■□■
 
 
 
 千鶴が呉服問屋を出たときには、もうあたりは美しい夕焼けに包まれつつあった。――思ったよりも、遅くなってしまったようだ。
 履物の丈だけでなく、上衣の肩を詰めたせいだろうが。ご主人に「お痩せになりましたね。きちんと召し上がっていますか」などとしきりに心配されて、寸法を変えてもらうのが申し訳なかった。普段の着物とは違って、少し体型が変わっても合わなくなるとは、洋装とはなんとも不便なものだ。
 ようやくできた小柄な男物の服を受け取り、足早に店を出たところで、千鶴は冷たい風に身震いした。
 独りぽつねん、と赤い地面に映り込んだ影。
 
 こういう時間を逢魔が刻と言うのだったか。
 
 見送りに出てくれた女将が迎えはないのかと聞く声には、首をふるしかなかった。
 今日は山崎は新選組の本拠地へ行っていて、千鶴たちのところへ来るのは夜半近いと聞いている。呉服屋に行くことは伝えてあるものの、迎えを待てるような時間ではない。
――さて、どうしたものか。
 つい先日戻った実家で、あの敵意露わな兄に会ってしまって以来、山崎は過保護になった。常に周囲を警戒し、千鶴から目を離さない。
 今日はもっと早くに帰れるはずだったから、渋々、ほんとうに渋々と、単独行動に頷いてくれたのに――。
 
 
 ぐずぐずと躊躇って、時間を浪費してもいいことは何もない。
 千鶴は腹を括って呉服屋を後にし、半ば小走りで家路を急いだ。
 見る間に夕暮れが夕闇に、薄暮に変わってゆく。
 影が長くなり、色濃くなってゆく地面と溶け合って、見えなくなりつつあるのが、なんとも焦燥感をあおる。
 周りを見ても、独り歩きをしている者などいない。女はもちろん、男ですら複数で連れ立っている。
 千鶴は、胸の前をかきあわせた。男装などしていても、不安から歩調がより速くなるのを、止めることはできない。急いでいる人を見れば、自分もより焦る。すれ違った直後に笑いだした男たちがいれば、千鶴の話題ではないとわかっていても、びくりとしてしまう。
 
 もう日も落ちようかという頃になって、ようやく見慣れた四つ辻に辿り着いた。もう曲がれば家だと思うと、ほんの少しだけ安心し、腕の力が抜ける。
 と、小脇に抱えた着物が、ずるりと右腕からすべった。
「お……っと!」
 慌てて風呂敷包みに目をやる。作ったばかりの洋装だ。落としたくはない。
 
 
――後から思えば、このよそ見がいけなかった。
 
 
 荷物を抱えなおそうと上げた左手が、体の前を交差する。そこに、どん、と何かがぶつかった。
「あ――!!」
 強い衝撃に、風呂敷包みが手を離れて路地裏へ跳んでいく。
 咄嗟に伸ばそうとした手は、なぜだかうまく上がらなかった。
 上がらない? ―――なぜ?
 
 どうしたんだろうか。
 なんだか、左腕が熱い。
 どうしてこんなに、痺れてくるんだろう。
 
 
 どうして――――ひどく血が出てるんだろう。
 
 
 千鶴がそんな疑問を持てた時間は、ごく短かった。
 
 
 相手と目が合ったのは、一瞬だった。彼女の左腕を斬って赤く濡れた刀が、静かに翻る。
 声を上げる間もなく袈裟掛けに斬り下ろされて、千鶴の意識はそこで途切れた。
 
 
 
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 呉服屋の女将は、噂話の好きな、気のいい女だった。千鶴が相槌を打たなくとも、どんどんと話をつなげて行っていた。
「そういえば、ご存じですか?」
 千鶴の服の裾が、するするとまつりあげられていく。その速さに、見惚れた。
「最近ね、辻切りが出るんですよ」
 最後に糸を玉止めしながら、苦笑した女将の顔をよく覚えている。
「はした銭目当てらしいんですけどね。本当、たまりませんわ。しかも狙われるのはほとんどが女」
 その服を千鶴にあてがって、満足そうに頷いてくれていた。
「お嬢さんも気をつけて。こういう服を着たって、可愛らしい女子さんなのは滲み出ちゃってますからね」
 
 はい気を付けます、と言った自分は、笑ったのだったか、神妙な顔をしたのだったか。少し前の話なのに、その部分は全く思い出せない。
 
 
 
『きみはいつだって、隙が多すぎるんだよ』
 
 
 
 いつだったか、沖田に苦笑されて、そんなことありません気をつけてますと反発し、余計に苦笑を誘ったものだったが――
 
(沖田さん、ごめんなさい)
 
 確かに、隙だらけだったんだ、と、身をもって知ることになってしまって。
 このまま沖田に会えなくなったら、彼はどうするだろう―――?
 
 共に過ごした月日は、決して短くない。
 飄々と見えるのは、沖田の本質ではないとわかる程度には長い。彼は本当は、寂しがりで、人のことをよく気にかけてくれて、温かくて。
 
 
 もしもこのまま沖田に会えなかったら――彼が悲しむ。
 
 
(それは、嫌だな…………)
 
 


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 うとうととまどろんでいた沖田の鼻を、なにかの匂いがかすめる。
「……ん……」
 覚醒を促されるような、血がさわぐような匂い。
――どこか、すぐそばで血が流れたのだろう。
 
 障子の向こうを見れば、薄暮につつまれている。
(千鶴ちゃん、遅いな―――)
 沖田はため息をついて、再び目を閉じた。
 
 
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 さまざまな記憶が、断片的に浮かんでは消える。
 ゆらゆらりとたゆたっていた思考が、引き戻される。
 
 なにか甲高い悲鳴を聞いた気がして、千鶴は急速に覚醒した。
 
 開けた瞳に映ったのは、地面の濃色だ。地に伏した頬の下で、砂がざらりとこすれたのが不快で――それを知覚すると同時に、痛みも戻ってくる。
 とにかく全身がどくどくと脈打って、痛い。そして、熱い。
 
 意識を失っていた時間は、実際にはそれほど長くなかったようで、左腕はすでにほとんど治っていたが、胸から腹までばっさりとやられた傷はまだあまり乾いていなかった。
 普通の人間ならば、確実に致命傷だ。急所を避けても、出血でお陀仏だろう。
 視線だけを動かすと、犯人らしき姿はすでになかった。まともに顔すら見ていないが、なるほどこれが例の辻斬りか、とぼやけた頭で考えた。
 
 
 耳元で、知らない女性がなにか叫んでいる。さきほどの悲鳴の主だろうか。大丈夫か、とかそんなような内容のことを言っているようだった。
 おそらく彼女の悲鳴で犯人は去ったのだろうから、感謝のひとつも言いたいところだったけれど、残念ながら千鶴には声を出す気力がなかった。
 千鶴が目を開けたことに気づいたのか、女性はその場を離れた。おそらく、誰か助けを呼びに行ったのだろう。
 ……まずい。
 出血の割に傷口が小さい――すでにふさがりつつある――ことがばれてしまえば、面白いことにはならないだろう。
 それに、助けに来てくれた人が反幕府方の可能性もある。
 女性が路地の向こうへと走り去ったのを横目に見つつ、どうにかその場を離れようと、千鶴はそろりと立ち上がる体勢を取った――いや、取ろうとした。
 
「……ぅあっ……!!」
 
 体を起こそうとして力を込めた途端、傷口に焼けつくような痛みが走る。
 肩と腹には、全く力が入れられなかった。
 力を入れた部位のそば、傷口から生暖かい血が絞り出される感覚に、冷汗が出た。
 
 
 血とともに、自分の命が流れ出てしまったような錯覚を覚える。
 
 
 どうにか体を立て、塀に向かって足を踏み出したときには、脂汗が滲んだ。
 上半身が痛い。
 そして腹まわりが熱い。
 数歩歩いただけで、全身が焼けるように火照って疼いた。もはや、どこが痛いのかもよくわからない。
 じりじりと、足を引きずる。
 近づいている気がしない路地を睨みつけて、千鶴は熱い呼気を吐いた。
 奥歯を噛みしめる感覚だけが、鮮明だった。
 
 
 

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