思ったより早く終わった。
 そう思いながら、すっかり闇に包まれた道を、足早に行く山崎が、ふとそちらを見たのは偶然ではなかった。
 かすかにだが、誰かに呼ばれた気がしたのだ。


たそかれ 02




 目的の家――新選組幹部と、不思議な縁で組に居ついた少女の隠れ家――まで、あとわずかというところにある小道。
 普段ならば、気にもとめない。視線も向けなかったはずだ。
 だが、そこにわだかまった闇から、視線を感じた。
 一瞬足を止めた山崎に、闇が喋った。
 
 
「やまざき、さん……」
 
 
 確かに自分の名を呼ばれた。それも、聞きなれた声で。
 
「……?」
 
 すぐに警戒を解かなかったのは、彼女の双子の兄のことが頭をかすめたからだ。
 刀に手をかけて近づく。もしも薫の擬態であれば、即座に切り捨てるために。
 
 闇に座りこんでいる人物の、その服装を見て、思わず目を瞠る。
 かろうじて肩に引っ掛かっている程度の着物。一見死体にしか見えないから、傍に寄る者もいなかっただろう。いたとすれば追剥くらいのものだ。
 
 山崎とて、声をかけられなければ生きた人間だと気付かなかっただろう。
 暗さにまぎれた黒い染みは、おそらくすべて血だ――色は分からなくとも、濃厚な臭気は間違えようがない。
 擬態ではありえない、と気づき、顔から血の気が引いた。
 
「雪村!……怪我を――? これはかなり、」
 駆け寄った先で、千鶴本人が、力なく首を振る。
「いえ、だいたい治りました」
「どこを斬られた。腹と――腕もか」
「腕は完全にふさがってます。おなかのほうはもう少しですが、大丈夫です」
 微笑んでみせる千鶴に、山崎は眉を寄せた。
 どうしてこう、やせ我慢をするのだろう。刀傷は、大の男でも寝込ませることがあるというのに。
 肩に手をかけると、まだ少し熱い。額に手をあてたときには、千鶴は気持ちよさそうに目を閉じた。外気で冷えた手が心地よいのだろう。
 どうして、とか、いつから、とか、誰にやられた、とか。聞きたいことはいろいろとあったが、まず出た言葉はこれだけだった。
 
「……とにかく、命があってよかった」
 
 千鶴が鬼であるという事実に、感謝したいと、山崎ははじめて思った。
 
 
 
 ■□■□■
 
 

 千鶴が独り、ようやく家の門をくぐったときには、あたりは完全に夜の帳に覆われていた。
「……ただいま戻りました」
 ぽつりと落とした言葉に、沖田の返事はなかった。寝ているのかもしれない。
 これ幸いと、早足に厨へ向かう千鶴は、先ほど買った洋装を着ていた。一番はじめに跳ね飛ばされたのが功を奏し、まったく血の染みもなく無事だったのだ。
 かまどに向かって、沖田のために滋養のつくものを煮込みながらも、少し心臓がどきどきした。沖田に隠し事をするのは、心臓に悪い。 ――結局、辻斬りに遭ったことは、沖田には黙っていることにしたのだ。
 千鶴がそう提案すると、山崎はかなり難色を示したが(「理由がないし、第一あの沖田さんを騙せるわけもないだろう」)、もはや傷もほぼ塞がっているし、沖田に余計な心配をかけたくなかったので、何とか説き伏せたのだった。……思いきりあからさまに溜息を吐かれたが。
 渋々ながらも、手当をしてくれて、血濡れの着物を捨てに行ってくれたのだから、山崎はほんとうに優しいと思う。そのうえ、手当にたくさん薬を使ってしまい、彼は補充に松本宅へ向かうはめになったのだから、申し訳なさも倍増だ。
 
 
「……おかえり」
「!!!!!」
 
 
 文字通り飛び上がって振り返ると、厨に続く暖簾(のれん)をかき上げて、沖田が立っていた。
 
「沖田さん! 起きて平気なんですか?」
「うん。誰かさんが帰って来るまで寝てようかと思ったら、全然帰って来ないんだもの。一日寝ちゃったから少しは動かないと」
「あ……すみません、遅くなりました」
「それはいいけど――山崎くんは? 送ってもらったんだよね?」
「はい、ちょっとご用事でまた出かけられましたが」
「用事ね。ふうん」
 たったこれだけの会話でも、千鶴の心臓はうるさく鳴りっぱなしだった。沖田の笑みが、いつもどおりなのか、含みがあるのか、つかめないのだ。
 仕方なく、吹きこぼれる気配もない鍋を、必死にかき回した。背後に沖田がさくさくと近づいてくる。
 
「ねえ千鶴ちゃん、怪我してない?」
 
 その言葉に心臓が跳ね上がったのは事実だが、ここまでは予想の範疇の質問だ。
『羅刹の沖田さんは血の臭いに敏感だ。すべてを隠そうとするな』
 山崎の言葉を思い出し、千鶴は平静に平静に、と念じつつ振り向いた。そして、用意しておいた言葉を口にする。
 
「あの、さっき指を切っちゃいまして」
 
 探るような沖田の目から、そらしたい衝動にかられる。
 
「もう、ふさがりましたから、大丈夫です」
「――――そう。ならいいけど」
「はい。あの……もうできますから、」
 
 座っていてください、と言いかけて、肩に乗ってきた手の重みにびくりとする。
 
「服、できたんだ。いいじゃない」
  そのまま、くるりと沖田の方を向かされる。おたまを落としかけた千鶴を見て、彼は満足げに笑った。
「うん――新鮮。似合う」
「ほほほほほ本当ですか?」
 真正面からそんなことを言われて、赤くなるなというほうが難しい。
「さあ、どうだろうね」
「!! 沖田さん、またそうやってからかって……!」
「べつに、からかってなんかいないよ」
 にこりとほほ笑む人を前に、千鶴は顔をそむけた。見てなんていられない。
「ほら、こっち向いて。僕に見せるために着替えてくれたんじゃないの?」
「へ?」
 本気で聞き返してしまってから、しまったと思ったがもう遅かった。沖田の笑みが皮肉げに変わる。
「……なに。じゃあ、山崎君に見せたくて着てたわけ?」
「いいいえいえいえいえ!!!」
 そんなことはもちろんないが、まさか本当のことを言うわけにもいかない。
 都合のいい言いわけを思いつくはずもなく、「ちょっと着てみたかっただけ」「本当です」を繰り返す千鶴は、慌てすぎていて気付かなかった。沖田の顔が、次第に苦笑に変わっていたことに。
「はいはいはい、もういいから」
「いえ、本当ですから!」
 顔をあげて主張した千鶴に、影がかかる。
 ふと額に触れた柔らかい感触に、彼女は固まった。
 
「まったく、しょうがない子だね。君は」
 
 そのままぽんぽん、千鶴の頭をなでた沖田が、手を洗いに行く、とその場を離れてからも、彼女は固まったままだった。
 顔に手を当てる。あつい。
 しょうがないって、なに。どういうこと?
 脈拍が上がった気がして、かさぶたの下が少し痛んだが、今の千鶴には全く気にならなかった。
 
 
 
 ■□■□■
 
 
 
 結局山崎は夕餉には間に合わず、家に戻ったのは夜半過ぎになってからだった。
「お疲れ様です」
「ああ」
「随分遅かったんですね」
「先生が、大いに心配しておられたからな。説明に時間がかかっただけだ」
「あ……すみません……」
 さぞかし面倒だっただろうと思って咄嗟に頭を下げた千鶴に、山崎が苦笑した。
「謝ることじゃない。命があってなによりだ、と先生も仰っていた。……沖田さんは」
「あ、はい、もう寝てます」
 沖田の寝室に続く襖は、しんと沈黙している。
「あの……ありがとうございました」
「いや、まあいい。それより、よくあの人に隠しおおせたな。言っては何だが、絶対に無理だと思った」
 これには苦笑するしかない。千鶴自身、結局沖田が騙されてくれたのかどうだかよくわからない。
 そのときの沖田の様子を思い出そうとして――余計なことまで思い出し、顔があつくなる。
(……!! ……!!)
「……どうした」
 怪訝な声を向けられ、無意識に顔を仰いでいた千鶴は、はっと我に返った。
「い、いえいえいえ、あの……そう、着物はどうなりましたか」
「ああ、川へ投げ入れた。運悪く土方さんたちが見つけでもしなければ、大事にはならない」
 たしかに新選組の皆は、彼女の着物の柄を知っているから、血まみれで川から発見されれば大騒ぎだろう。
 千鶴はくすりと笑った。
「あれを発見されたら、私は死者扱いでしょうね」
「だろうな。――傷のほうは」
「もうほとんどありません。かさぶたくらいです」
「そうか」
 微かに笑った山崎に、はい、と笑い返そうとして――首をかしげることになった。
 山崎が、千鶴の背後を見て眉をひそめたからだ。
 
 
 ぴたりと動きを止め、口も閉ざした山崎の沈黙が怖い。
 ゆっくりと後ろを振り向いてみて、千鶴も凍りついた。
――暖簾の下から覗く着物は、沖田のものに違いない。
 
 
 会話が途切れた、というよりも止まったことに気がついたのか、寝ていたはずの人物が、暖簾をかきわけて入ってきた。
 静かな声が、三人の間に落ちる。
「……君が帰ってくる少し前から、うちの近くで血の臭いがしてたんだけどね」
 千鶴に向けられた、沖田の笑みが、なんだか怖い。
「君が帰ってきたら、余計に強くなったんだ。たいしたことじゃなかったのかもしれないし、隠したいならべつにいいかと思ってたけど」
と、そこで言葉を切る。
 視線が向けられたのは、山崎だった。
「説明してくれるよね?」
 笑みも消えた沖田の、冷たい瞳を見たのは、久し振りだった。
 
 
 


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