明日晴れるか 02
――おそらく自分は今、そうとう酷い顔をしているに違いない。
そう思いつつ、千鶴はのろのろと廊下へ出た。むき出しの裸足に、板張りの床がひやりと冷たい。寝ることはとうに諦めていたが、僅かにあった眠気も、冷たさの前に吹き飛んでいった。千鶴は素足で出たことを少し後悔したが、早く井戸を使いたい欲求が勝った。
なにせ、一晩中冷や汗をかいていたせいで、喉がからからだったし、顔も洗ってすっきりしたかったのだ。この濁り淀んだ気分を洗い流すための作業が、切実に必要だった。
井戸の清廉な水を口に含んで、千鶴はようやく人心地ついた。
桶に映る自分の姿は、どう穿って見ても人間そのものだった。そんなことにも、なんだか泣けてきてしまい、あわてて目元をぬぐった。そのまま顔を洗っていると、そばに人の気配が立つ。
顔をあげると、さっと手ぬぐいを渡してくれる、優しいひと。
「……原田、さん」
「よう千鶴、お早うさん。お前にしちゃあ随分と早くねえか?」
そう、温かい声で言われると、非常に困る。千鶴の涙腺は今、とてもゆるんでいるのに。顔に押し付けた手ぬぐいの存在が、こんなにありがたかったことはなかった。
千鶴は、彼の笑顔を直視できずに、自然とうつむき加減になった。
「おはよう、ございます。なんだか、目が覚めちゃいまして」
「そっか。……お前、体の調子とか、大丈夫か?」
聞かれて、どきりとする。一応、目の端で、髪が黒いことを確認したが、背中を冷たい汗がつるりと滑ったのがわかった。
原田は、視線を軽く周囲に投げて続けた。
「源さんのこととか、あったしなあ。平隊士のやつらも、かなり参ってる。
その……女のお前にゃ、酷な事態だと思ってよ」
鬼のことがばれているわけ、ない――当たり前だ。今の千鶴は、少なくとも見た目は人間だ。
安堵感に、肩の力が抜けるのがわかった。
しかし、そのまま井上の話題で場を繋ぐのも無理な話だ。千鶴の中で、彼の喪失はまだ生々しい痛みだった。口に出して、泣いてしまわない自信など、ない。
何と返したらよいものか、頭がぐるぐるとして、結局口をついたのはごく無難な話題だった。
「いえ……その……は、原田さんも、今朝は早いですね」
「ん?……そうか? まあ、今日は出発だしよ。土方さんや斉藤のやつも、もう起きてるぜ」
「……そうなんですか」
あともう少し、姿が戻るのが遅かったら。あの部屋に、誰かが――おそらく、原田が――起こしに来てしまっていただろう。そうならなかったことを、ひとまず感謝した。
「あの、」
「っと、わりい、土方さんのとこに行かなきゃなんねえんだ。……また後でな」
「あ、はい、すみませんお引止めして……」
落ち着いてきた千鶴がようやく顔をあげ、原田と目を合わせた――とたんに、こうだ。それとなく視線をそらされ、話題を断ち切られてしまう。
最近の原田はいつもそうだった。会えば話すし、細かなところでの、優しい気遣いは変わっていない。
――でも、明らかに千鶴を避けている。
軽く手をあげて建物に入っていく原田を、千鶴はぎこちない笑顔で見送るしかなかった。
部屋までの道のりが、遠い。
原田に避けられるのは、この頃、残念ながら慣れてきたけれど……平気になったかと言われれば、そんなはずはない。普段でもかなり堪えるというのに、今日のこのタイミングで避けられると、なおさら胸に痛かった。以前の原田は、新選組のなかでは千鶴を特に可愛がってくれていた。その原田が冷たいとなれば、鬼の居場所はここにはないと、そう突きつけられたも同然だった。
あの優しい人は以前、新選組を出て行くなら相談しろ、と言ってくれた――が、それはもう、過去の話だ。今は、相談はおろか、会話を交わすのにも一苦労だ。
千鶴自身、あの時は、まだ彼と共に新選組にいたい、と願っていた。いられる、とも思っていた。もちろん、今もその願いは変わっていないが――
――これが、潮時、というやつなのかもしれない。
□■□■□
「幕府軍と分乗する? どういうことだ、土方さん」
「いろいろと幕府方とも相談したんだが、人数の問題もある。新選組は新選組で、ってわけにもいかねえんだよ」
永倉の声に、土方がため息をついた。
江戸に向かう航路、新選組と幕府軍は、共に2隻の船に分乗することになったのだ。一隻は、土方が率いる富士山丸。局長を含む、負傷者たちを多く乗せる予定である。
問題はもう一隻の、順道丸だった。こちらは比較的軽傷の者を乗せ、永倉と原田が統率にあたることになった。先発部隊として今日の午後発つという強行軍だが、そのこと自体はいい。ただ――
「……羅刹隊はどうすんだ?」
「それなんだが。
奴らは、お前らの方に乗せる。血の臭いで狂うんじゃ、こっちにはキツい。負傷者を集めた船なんて最低の環境だろう」
「まあ、確かにな。そうなると、逆に分乗でよかったんじゃねえか?」
「おい左之? どういうことだよ」
怪訝な声を上げた永倉に、原田は笑って答える。
「いや、新選組で一隻、とかなってやがったら、隊士連中の目から隠し通すのは骨だと思わねえか?」
「左之助の言う通りだ。平隊士たちは基本的に富士山丸に乗せる。……実際、怪我人だらけだしな。んで、順道丸にはなるべく幕府軍を乗せるように誘導しておいたから、なんとか乗り切ってくれ」
羅刹隊の構成員を新選組の者が目撃すれば、すぐにおかしいと気づいてしまう。死んだはずの仲間が動いている姿を目撃してしまったら、肝を潰すことだろう。
その点幕府軍の人間は、平隊士の顔や個々の生死など、ほとんど知らない。つまり、どんな隊士がいてもさほど違和感を覚えることはないはずだ。
土方は苦い顔で続ける。
「……まあ、置いてくわけにもいかねえからな。山南さんとか、平助とか、面割れてるやつらは特に、気にかけといてくれ。
――新八、左之助。面倒だが、頼んだぞ」
「ああ、任せとけって。なあ、左之」
「おおよ。いっそ、平助とか髪切らせりゃあいいんだよ。人相変わるに違えねえ」
そりゃいい、坊主にしちまえと永倉が笑ったとき、襖に声がかかった。
少し低めてはいるらしいが、普通新選組にはない、高い声。
「雪村です。お呼びと伺いましたが」
「入れ」
失礼します、と入って来たのは千鶴だ。原田から見れば、どう考えても、もう男と偽るのは難しいと思わされる体躯と、声。今朝、井戸端で会ったときには無防備に髪を下ろしていたから、余計にそう感じた。
ちらりと土方と永倉を見ても、彼らは動じる様子がない。自分の考えすぎなのだろうかと、原田は眉をひそめた。
それには気づかず、姿勢を正して聞く態勢の千鶴に、土方が切り出した。
「江戸行きの話だ。
船を2隻用意することになったから、どっちに乗りてえか選べ」
千鶴が原田に懐いているのは、幹部の間では周知の話だ。自動的に順道丸に振り分けても良かったが、松本から土方に、医術の手伝い要員として、富士山丸に乗せて欲しいという要請があったのだ。
ならば本人に選ばせようと、一応千鶴を呼んだが、まあおそらく順道丸に乗るのだろうというのが一致した見解だったし、原田ももちろんそう思っていた。
しかし、千鶴は逡巡を見せて俯いた。
「松本先生は……富士山丸なんですね」
「……ああ。だが、別にそれは気にしなくていい。先生に頼まれたから一応お前にも伝えたが、」
「じゃあ……富士山丸でお願いします」
土方の声をさえぎって、はっきりと告げた千鶴に驚いたのは、おそらく場の全員だ。思わず顔を上げた原田と、千鶴の目が合った。一瞬の交錯の後、珍しく、千鶴のほうから逸らされてしまう。
土方が千鶴を見据えた。
「いいんだな。負傷者ばかりだ。休まらねえぞ」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
「……ならいい。下がれ。出発は明日の正午だ」
頭を下げて辞していく千鶴を見送ってから、永倉が怪訝な声をあげた。
「おい左之。なんだ、千鶴ちゃんとなにかあったのか?」
「なにかってなんだよ。なにもねえよ」
「そうかあ? 俺はてっきり、二つ返事でこっちの船に乗ると思ってたぜ」
土方も、苦い顔を隠さなかった。
「俺も、左之助に面倒見させる気でいたんだがな――仕方ない。俺は無理だから、斉藤をつけるか」
千鶴はその性別上、ふらふらと一人で行動させるわけには行かない。事情を知るのは幹部だけだから、どうしても忙しい中から人員を割くことになる。
原田は、ため息をひとつついて立ち上がった。
「ちょっと、話聞いてくるわ。本気で医者がどうこうって話を気にしてるってんなら、順道丸の方に乗せてもいいだろ。こっちも怪我人が乗らねえわけじゃねえしよ」
ただ――おそらく、理由はそれだけではない。
原田自身、分かっているのだ。自分の態度が千鶴を戸惑わせている、と。
「もし千鶴の気が変わったら俺にも言え。新八は、隊士たちに準備させろ」
「おう」
「了解」
土方の言葉に、その場は一旦お開きになった。
原田は、とりあえず千鶴の部屋へと足を向ける。彼女の気を変えられるような言葉が、自分の中にあるだろうか。
――俺が傍にいたところで、守ってやれるわけでもねえのに。
守る、以外のどういう立場で傍にいていいのか、わからない。千鶴の向けてくれる信頼に応える術がない。だから、彼女の信頼は別の誰か、もっと頼りになる人物に向けられるべきなのかもしれない。
それでも、ああして別の船を選択されると、気にかかった。
千鶴が自分から離れていく感覚は、予想以上に寂しいものだと、原田は知ったのだった。
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