明日晴れるか 03

 
 
 土方に船の選択を迫られ、千鶴の頭に真っ先に浮かんだのは昨夜の出来事だった。
――あの忌まわしい、鬼変化。
 
 原田の、千鶴を見る目が怖くてたまらなく感じる。
『あいつの顔、見ただろ。あれが本音だ』
 不知火が嘲笑った声が蘇る。あのとき確かに、鬼に対する嫌悪を見てしまった。
 
 今のこの姿は、擬態なのだ。ヒトの群れにまぎれて、あの人の同情を得る。
 でも自分の本質は、化け物だ。いつ、どこで露呈するかもわからない――千鶴には、昨夜の鬼変化がどうして起きたのかわからないのだから。
 食べ物か?
 疲れだろうか?
 それとも、血の臭いを嗅ぎすぎて、本性が現れたとか、そんな話だったら?
――理由がわからないことが、なにより怖い。
 もし、昼間に突然あんなことが起きて……あの姿を見たら、原田はどんな表情をするのだろうか。想像するだけで、千鶴は泣きたくなった。
 
 他の誰に疎まれても、彼の拒絶を見るよりはマシだ。
 そう思ったら、自然と富士山丸を選んでいた。
 こんな状況で、傍になんていられない。
 
 
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 ぼんやりと出立の準備をしている千鶴に、襖の外から声がかかった。
「千鶴。ちょっといいか?」
 今まで考えていた人の声色に、千鶴は固まった。
「……千鶴? いるだろ?」
「っはい!」
 ばっと襖を開けると、驚いた顔の原田と目が合った。
 思わず俯いて目線を逸らした千鶴に、悟られないように原田が嘆息する。
「ちょっと、いいか」
「はい……あの、どうぞ」
 廊下で立ってするのも具合の悪い話だろうと、ひとまず部屋へと案内した。緊張する千鶴を前に、原田は少しだけ言葉を選ぶような様子を見せた。
 何の話だろう、と思いつつ、半ばは予想がついていた。やはり、あっさり原田と違う船を選んだのを気にかけてくれたのだろう。――この人は、そういう人だ。
 千鶴には、今でも原田以上に懐ける人はいない。それを、原田のほうもわかっているから、無碍にはできないのだろう。
 少しの沈黙のあと、結局原田はすぐに本題を切り出した。
「悪ぃ、まどろっこしいのは得意じゃねぇから単刀直入に聞くわ。千鶴、お前、ホントに富士山丸に乗りてえのか? それとも、松本先生のこと、気にしてんのか」
 実際には、それだけではなかったが、とりあえず千鶴は頷いた。他に富士山丸を選ぶ理由があるのか、と問われても困ってしまうからだ。
 そうか、と原田は一瞬躊躇ってから口を開いた。
「なら、俺からも松本先生に口添えしてやるから、やめとけ」
「え……だって、怪我人が大勢いるのに」
「だからって、わざわざお前がしなきゃならねえことじゃねえ。あんなもん、女の見るもんじゃねえよ」
 確かに、怪我人は総じて、見ていて心地よいとは言いがたい。成人した男でも、戦場の臭いや光景、その惨さに嘔吐することがあると聞く。原田が自分を気遣ってくれているのだ、とは分かった。
 しかし千鶴も、そう言われると逆に冷静になった。
 今回、原田と離れたい気持ちを優先して船を選んだことは否定できない。けれど、そうでなくとも千鶴は富士山丸に乗ることを考えたはずだ、という確信があった。これでも医者の娘だ。目の前に患者がいて、自分に救う術があるなら、男も女もない。
 千鶴は、顔を上げた。
「その……私は、今までみなさんに散々お世話になって来ました。なのに、私にできることがあって放っておくなんて、そんなことできません」
 船を決めたときのように、はっきりと告げた千鶴の言葉に、原田が苦笑する。
「そうか……ったく、江戸の女ってのは、どうしてこう、強いかね」
「す、すみません……」
「謝ることはねえよ。褒めてんだ。 じゃあそうだな……こう考えちゃくれねえか?  怪我人がいるのは、なにも富士山丸だけじゃねえ。鳥羽伏見で、怪我しなかった奴のほうが少ねえんだ。むしろ、松本先生のいない順道丸にも、医者の心得があるやつがいてほしい」
「それは……」
 確かに、一理ある。
 こういうときに千鶴と仕事を分け合っていた山崎は、銃弾を受けて熱を出していた。昨日診た様子では、数日中が峠となる、ひどい怪我だ。治療をされることはあれど、治療する側にまわることはありえない。
 今現在動ける人材で医学に明るい者は、本当に少ないのだ。
「それに俺は新八と、あっちを任されちまってて、富士山丸のほうには乗れねえからな。……まあ、ついてて何ができるわけでもねえし、船の上に鬼どもが来るわけもねえけどよ。
 な、千鶴。順道丸に乗らねえか」
 言いざま、原田の手が。
 ぽん、と千鶴の頭に乗せられた。
 
 この時の感動は、恐らく一生、原田にはわからないだろう。
 
 嬉しさが顔に出るのを、千鶴は止められなかった。

 ああして避けられて、最近ではほとんど会話もなくなって。
 その上、千鶴は違う船に乗ると言い張って、明らかに原田から離れようとしていて。
 それでも、これ幸い、と突き放すのではなく、そんな千鶴のことを、まだこんなに気にかけてくれるのか。
 守ってやる、と言い続けてくれたことを、覆す気はないところが、いかにも原田らしい。
「あの……ありがとうございます」
 千鶴は、久しぶりに真正面から原田に微笑むことができた。
 真剣だった原田も、つられて顔をほころばせる。千鶴に向けられた、こちらも久しぶりの笑顔だった。
「そうか、なら土方さんと――」
「いえ、でもやっぱり、そちらには乗れません」
 何もかも考えず、頷いて順道丸に乗れたら、どれだけいいだろう。
 優しさにほだされて、逃げ場のない航路で同じ船に乗ってしまえば、千鶴はいつ起きるともしれない鬼変化に怯え続けることになる。それは絶対にできない選択だ。
 けれど、もちろん、原田がそれで納得するわけもない。千鶴は確かに嬉しそうな顔をしてしまったから、なおのことだ。
「……理由を、聞いていいか?」
「あの……その……沖田さんのことが」
「総司?」
 千鶴がとっさに出したのは、沖田の病状だった。
 
 沖田は、鳥羽伏見の戦には参戦しなかった。細かい咳と微熱に加え、血痰を吐きながらも小庸状態を保っていた彼は――遂に喀血したのだった。
 当然戦線へ連れて行けるわけもなく、そのまま、大阪に搬送された。
 一度目の喀血を乗り切った沖田は、暫くは元気に見えたが、肺の傷からか、高熱を出すことが増えた。
 
「だからって、お前が付くこと…」
「いえ。私がいいんです。私は……労咳にはなりませんから」
「……どういうこった?」
「私は――鬼ですから。
 昔、診療所に労咳の患者さんが来たときに、父様が言っていました。
『労咳で死ぬのは、弱った人だ。私達の一族は病気に対する抵抗力が特別に強いから、死ぬことはない』と」
 当時は鬼のことを知らず、そういうものかと思っただけだったが、今思い返せば、それも頷ける話だ。鬼の持つ身体能力や再生能力のことを考えれば、人間の数倍以上の抵抗力を持つに違いない。
「そうか……」
 よかったな、と言いかけた言葉を、原田が飲みこんだのがわかった。死病にかからないとはいえ、鬼の力に対してよかったと言っていいのかわからないのだろう。
 千鶴は視線を落とした。もう、目を見てはいられなくて、彼の袴のひだを無意味に数えた。
「その……何だ。お前自身、そうしてえって思ってるのか? 総司に、ついていてやりてえのか?」
「……はい」
 嘘を許さない、と言わんばかりにまっすぐ見据えられても、千鶴は目をあげることができなかった。
 沖田のせいにすることにはひどく罪悪感がある。けれど、もう他に思いつかなかった。
「沖田さんのそばに、いてあげたいんです」
 千鶴の顔に、自嘲の笑みが浮かぶ。せめて航海中は、本当に沖田によく付いていようと、心に決めた。
 その千鶴を見てどう思ったか、原田もこれ以上追求するのはやめてくれたようだった。
「そうか……わかった。ありがとな」
 それから、総司を頼む、と笑った原田がもう一回頭を撫でてくれて。千鶴はもう、それだけで満足だった。
 
 
 原田が出て行った部屋に、ひとり取り残される。
 得体の知れない虚脱感が襲って来て、動く気にもなれなかった。
(……なんで、だろう)
 なんで、こんなに悲しくなるんだろう。
 ぽつん、と座っていると、ふいに涙が出そうになった。
 原田に嘘をついたのが初めてだからだろうか。病人を理由にするという、最低の断り方をしたせいかもしれない。それとも、単に寂しいせいかも。
 なぜ泣きたくなるのか、千鶴自身にもよくわからなかった。
 そもそも、自分で断ったのに、この寂しさはなんなのだろう――素直に、順道丸に乗ると言えばよかったのだろうか。
 今すぐに、原田のあとを追って、訂正したい衝動に駆られるのを、千鶴は必死で押しとどめた。
(大丈夫、)
 今回のことは、離れる準備になる。いつか本当に彼の元を離れるときの寂しさに、慣れるための予行。
 江戸まで行けば、千鶴の実家もある。そうすれば、新選組に置いてもらわなくとも、住むところは心配なくなる。こうして、徐々に自分を慣らして、そして江戸に着いたら、家に帰ろう。家で、父様の帰りを待とう。
 鬼が来てしまっても、仕方がない。だって私が鬼なのだから。
 
 
 別離の時は、もう近い。
 
 
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