明日晴れるか 04

 
 
 江戸までの道は、船でもなお遠い。そして、船旅は陸路とは違う危険がある。富士山丸で、千鶴はなんとなく心休まらない生活を送っていた。
 
 一足先に出た順道丸の足取りを、停泊した際に聞きに行くのは、斎藤の仕事だった。斎藤はたいてい千鶴のそばにいたから、千鶴も早々に順道丸の無事を確認できた。
 なにもない、無事に航海しているはず、とは思っていても、実際に斎藤が、あの通りの冷静さで「大丈夫だ」と言ってくれると、ひどく安心した。
 とはいえ千鶴のほうも、先発組を心配したり、自分のことで鬱々したりする時間はそうなかった。実際、鬼化した原因もわからないのに、昼間に動き回るのは恐ろしかったが、そうも言っていられない。治療にあたっているか、土方の用向きを聞いているか――斎藤の邪魔にならないよう、沖田のところにいるか。
 沖田のもとにいるときは、斎藤は席をはずす。動くこともままならない沖田だが、そこにいるぶんには千鶴にちょっかいをかける者もいないだろう、ということらしい。忙しいはずの斉藤に、本来の仕事をしてもらうには、沖田のところにいるのがいい、とかなり初期に学んだ千鶴だった。
 それに、京都にいた頃から沖田の看病をすることは多かったので、名乗りをあげれば殆どの人間から賛同を得られた。
――当の沖田以外からは。
 
 富士山丸での沖田は、昏い目をあまりしなくなった。病気以前の、猫のような気まぐれさで、若い隊士たちと軽口を交わしていた。
 しかし彼は、千鶴に付き添われるのを嫌がった。
 昼間はいい。体調がいいときには、千鶴が怒るか拗ねるかするまで、徹底的にからかってくることもある。けれど、夜になり、熱が上がると、途端に彼は千鶴を追い出そうとするのだった。
 
 
 熱に顔を赤くした沖田が、千鶴の手をはねのける。
「もう、出てって」
 勢いまかせにふり払われた手は、しびれて少し痛い。さらに沖田は千鶴を睨みつけた。
「僕は君にいてほしくないって言ってるの。わからない?」
「……わかりません」
 不機嫌さを隠そうともしない沖田と、怯えながらも動かない千鶴。最後はいつも、根競べだった。
「本当に鈍い子だね。いらないって言ってるの。
――出てけよ!」
 
 沖田は、手負いの獣だ。
 弱っていく姿を、人目にさらすことなど考えられない、野生の獣。
 元気なときに傍にいても何も言わないのに、ひどく咳き込んだり、高熱を出したりすると、一転して千鶴を拒絶する。
 半分、やつあたりもあるのかもしれないが――手ひどく自分を拒絶されるのはつらい。その上、男の人の怒声は、年若い千鶴にとっては、無条件に怖かった。
 反射的に泣きそうになるのをこらえるので精一杯で、満足に言い返すこともできない。
 でも、何を言われても、引くわけにはいかなかった。
 今の沖田を、彼の希望のままに放置することはできない。病状は刻々と進行している。静観できる段階は、もう通り越してしまっていた。
 
 昼は回診、夜は沖田の看病。
 こうして、千鶴の船旅は、忙しく幕を開けた。
 
 
  □■□■□
 
 
 
 
 同じ頃の順道丸では、羅刹のこと以外はおおむね順調だった。羅刹全体の統率を取る山南、藤堂も大変だが、永倉と原田もまた大変だ。昼夜問わず目を配らなければならないことは明白だったから、彼らは交代制で、見張り、幕府軍の相手、睡眠をこなすことになり――当然、最も削られたのは睡眠だった。
 
「よ、新八。お疲れさん」
「おお左之。もう交代か?」
「おうよ。ただ、幕府方が呼んでるから、休む前に行ってこいよ」
「わかった。今山南さんは休んでる。平助は――」
 
「よー左之さん! お疲れさん!」
 
「!?」
 
 永倉が言い終わらないうちに、襖がスパン!と開く。顔を出しかけた藤堂を、原田はとりあえず部屋の中へと蹴りとばした。
 一撃をもろに腹に食らって、畳に仰向けに倒れる――ついでに、藤堂の体は、部屋に並んでいたとっくりを薙ぎ倒した。さっと襖を閉めて、派手な陶器の音を遮断し、原田が永倉の後ろ襟を掴む。
「て・め・え・ら! 何、酒盛りしてんだよ!」
「いやその…いいじゃねえか。アイツが、早く目ぇ覚めたっつうから、」
 永倉はむしろ開き直る。「平助が」と声に出さなかったのは偉いが、先に藤堂自身が声を発してしまっているから意味がない。周囲に人がいないのは確認済みだが、それでも声はまずい。どこまで響いているかわからないのだから。
 ため息をついて、原田は永倉を開放した。永倉が何やらぶつぶつ言いながらも、幕府高官の部屋のほうへ足を向けるのを見やってから、部屋に入ると、藤堂が割れたお猪口を片付けていた。
「あ、左之さん。……んな睨むなって。調子のりすぎてすんません」
「睨んじゃいねえよ、もとからこんな顔だろ。けど、わかってんなら俺らの仕事増やすんじゃねえよ」
「だから悪かったってば」
 もくもくと片付ける藤堂に、黙ってため息をついた。いつもなら、仕切り直して、ぱーっと忘れて一緒に飲もうという気になったかもしれないが、どうも気分が乗らない。
「……左之さんさあ、どうしたわけ?」
「は?」
 いつの間にやら手を止めた藤堂が、じっと原田を見据えている。
「いや、別に左之さんの手の早さは今に始まったことじゃないけどさ……なんか、変じゃね? ため息も多いしさ。
 どっか悪いとか?」
「どっかって……そりゃ、まあ睡眠が少なくて眠みいけど、そういう話か?」
「んー、そうじゃなくて……つか、そんなん慣れてんじゃんか」
「ああ。んじゃ、別に何もねえぞ?」
「そかぁ? ……ま、別におかしくないならいいけどさあ」
 いつもなら何事もはっきりと言うたちの藤堂にそう言われると、原田としてもひっかかる。かちんと来るのは一瞬だった。
「なんだよ、歯になんか詰まったみてえな物言いしやがって! 言いたいことがあるなら、はっきり言いやがれ!」
「だからあ、それがおかしいっつってんの!……っと」
 原田につられるように声高になってしまって、藤堂はばつの悪そうな顔で声をひそめた。さっき蹴り飛ばされた理由を思い出したのだろう。咳払いをして、真顔で続けた。
「あのさ、左之さん。なにピリピリしてんだよ?
 そりゃ負け戦で腹立つのわかるけどさあ、隊士たちも怯えてるじゃん」
「……そうか? わりい」
 確かに、無性に苛々している自覚はあったので、原田は素直に謝った。
 それが負け戦のせいなのかどうかは分からない。ただ、槍で戦うことに限界を感じたのは確かだった。鳥羽伏見でも――その前の、不知火の襲撃のときでも。
 自分が、力の限界を知って、こんなに弱気になる人間だとは、原田は知らなかった。守りたいものを守れないとわかったときのあの無力感を、どう克服したらいいのだろう。
 ふと、目の前で心配そうな顔を隠さない藤堂を見やった。外見はもとの藤堂と何ら変わりないが、彼は羅刹だ。羅刹の力を持つ彼なら、こんな風に迷うことはないのだろうか。――もちろん、そんな無神経な質問をする気はさらさらないが。藤堂だって、羅刹になるときも、なった後も、葛藤を抱えて生きているのだと知っている。
「左之さん――」
 
「藤堂くん、原田くん。ちょっと、声をおさえてもらえませんか」
 
 す、と奥の襖が開き、入ってきたのは山南だった。彼の視線が、畳に散乱した酒器類を一瞥し、状況を一瞬で把握して神経質そうな眉がしかめられる。山南は藤堂を睨んだ。
「藤堂くん……君は、羅刹隊としての自覚がないのですか」
「……悪かったって」
「しまった、見つかってしまった、では済まされないんですよ。私たちの得た力の代償なんですから、いかなるときも自覚していてもらわねば困ります」
「ああ、わかってる。……今日はなんか、早く目が覚めちまったから、ついさ」
 もごもご、と言い訳した藤堂に、山南はふむと頷いた。
「藤堂くんは、私より羅刹歴が短いですから、まだ日光に耐性があるということでしょうか。今の藤堂くんと、私の血液の組成を調べたら、なにか分かりますかね」
「……どうだろな……」
 はあ、と山南がため息をつく。
「やはり、雪村君に協力してもらうのが一番ですかね。彼女のような、生粋の鬼の協力が得られれば、何らかの進展が見込めるのですがね」
 羅刹のことならことさら自分が口を挟むこともなかろうと、傍観を決め込んでいた原田だったが、こともなげに言い放つ山南には到底同意できなかった。
「おい山南さん。それは、千鶴に実験台になれって言ってるのか」
 意図したよりもさらに低い声が出る。平の隊士であればここで引きもしただろうが、しかし幹部同士ではその威圧は用をなさなかった。
「実験台とは人聞きの悪い。彼女は彼女なりに、新選組の役に立ってもらおうというだけですよ。せっかくの能力を活かさずにどうします」
「それで? あいつから血ぃ抜いて、体質調べて、ってか? ……なにが違うってんだ」
「原田くんが、女性に優しくする主義なのはわかっていますが、それとこれとは、話が別です。……第一、これは雪村くんのためでもあるんですよ」
「ああ? そりゃ、どういうこった」
「彼女は、鬼です。鬼である自分の身を、どこかで生かせないか、それを模索する必要があるんですよ。原田くんだって気づいているでしょう? 彼女は、鬼であることに引け目を感じている」
「!!」
 原田がそれを感じ始めたのは、不知火の襲撃後のことだった。それから、隊自体がばたばたしていたから、仕事以外で千鶴と接触した者は少ない。まさか、ほかの者も気づいているとは思わなかった。
 動揺する原田に気づいているのかいないのか、山南は涼しい顔のままだ。
「あんなにすばらしい力を持って、引け目を感じることなどないというのに。 ――我々羅刹隊のために役立つことで、彼女も堂々と新選組にいられるという自負を手に入れるでしょう」
 確かに原田も、前半部分は賛成だった。理由はどうあれ、備わった力は誇るべきものだ――労咳のことも。あのとき、本当は「よかったな、いい力だ」と言ってやりたかった。けれど、言うことで千鶴が縮こまる様が目に浮かんで、結局口を噤んだのだ。彼女は、鬼の能力を忌避している。その必要はないのに。
 ただ、後半部分はやはり賛同できない。
「なんで、あんたが決めるんだよ、山南さん。千鶴が新選組でどうしていくか、鬼のことをどう受け入れるかってえのは、あいつ自身の問題だろ。論点をすりかえてんじゃねえよ」
「すりかえているのは、原田くんでしょう。私は、彼女に選択肢をあげるだけですよ」
「違えだろ! 一見選択肢に見えても、そりゃ強制だろうが!
 協力しねえなら新選組には必要ねえ、そういうふうに取れちまうんだよ。今の千鶴が、そう言われてどう思うか、考えねえでもわかんだろうが!!」
「左之さん、落ち着けって!!」
「うるせえよ、お前は出てくんな!」
「原田くん、あまり大きな声は――」
「いいから! 山南さんも、今日のところはもういいだろ。だいたい、左之さんに言ってもしょうがねえじゃん」
「なんだと、平助!!」
「――藤堂くんの言う通りですね。ここで言い争っても仕方がありません」
 山南が、冷たい微笑をうかべて会釈をした。では失礼します、と出て行く後ろ姿を、殴りつけたい衝動を原田はどうにかおさえる。元来、原田はかなり短気だ。それでも、こんなに頭に血が上ったのは久しぶりだった。
「なあ、左之さん――」
「なんだよ、お前も山南さんに賛同するってえのか! なんであのまま行かせちまうんだよ――!!」
 激昂している原田に、藤堂は困りきった様子だった。永倉と三人、連れ立って長いが、永倉ではなく原田が怒鳴るのは珍しかったからだ。
「違うってば、落ち着いてくれよ。あそこで山南さんを追い出してなかったら、左之さん、絶対山南さんを殴ってたろ? やばいって。私闘は士道不覚悟、だろ」
「――っ!!」
 だからなんだ、と言いかけた言葉を、原田はなんとか飲み込んだ。ここで藤堂に対して怒鳴っても、それはなんの実もないただの八つ当たりだ、と気づいたからだった。
 体から熱を逃がすように、大きく何度か呼吸をする。当然苛立ちは収まらなかったが、頭は多少冷えたようだ。藤堂に、「わりい」と軽く謝って、原田は部屋を出ようと襖を開けた。
「左之さん……」
「わかってるよ、平助、ありがとな。
 わりい。ちょっと、頭冷やして来るわ」
 すぐ戻る、羅刹どもの統率を頼む、とだけ言い捨てて、原田は逃げるようにその場を後にした。
 
 
 あのままいたら、なにを言ってしまうかわからない。
 頭に血が上っていたあのとき、割って入った藤堂に向かって浮かんだ言葉。
 
『お前も羅刹だから山南さんに賛同するのか』
 
 そんなわけがないと、今なら分かる。もし、自分がそう口にしていたら、藤堂がどれだけ傷ついたかも、容易に想像がつく。
 その言葉を口に出さないだけの理性が残っていて、本当によかった。
 
 
--------------------------------------------------------------------------
 
 
 頭を冷やすと言ってはみたものの、原田は甲板に出て風に当たる気にはなれなかった。一月の海風は、冗談ではなく身を切られるように冷たい。風邪をひきにいくようなものだ。
 どうにも、気持ちが収まらない。――千鶴に関することだからだ、というのは、とうに気づいている。原田とて、初心な少年ではない。自分が千鶴に惹かれていること、彼女に関しては我慢が足りなくなることを、否定する理由もない。
 長く「妹のように」可愛がっていたのも事実だが、日ごとに気持ちの境界があいまいになるのを自覚している。特に、この船路に入って、なぜだか彼女を思い出すことが増えた。
(まあいい。惹かれてるもんは惹かれてるんだ。理由もなにも、関係ねえ)
 一度認めてしまえば、あとは簡単だった。
 そうだ。なんだか無性に苛々してピリピリとしていたのも、千鶴のせいだ。
 
 今まで、そこそこ恋をしてきた。久しぶりの感覚だが、この振り回される感じには覚えがある。嫌ではないが、抗えない。
 原田は一人、小さく笑う。自分は、どちらかと言えば振り回されないタチだったはずだが――だが、この感覚は悪くない。
 
 問題は、千鶴のほうの気持ちだ。「兄のように」懐いてくれているのは、わかる。それ以上の気持ちはないのか、あっても隠しているのか、原田にはいまいち掴みきれない。
 今回の船選びでは、一応千鶴にも選択の余地があったはずだ。原田も、どちらも選べるように言葉を添えた。――その上で、千鶴は富士山丸を選んだ。
 その間、千鶴とはほとんど目が合わなかった。頑なに原田と目を合わせないようにしていた、彼女の本心はどこにあるんだろう。ただ、不安なのか。それとも……もう、原田を見限ったのか。
 言葉通り――沖田についていたいのか。
 
 千鶴が全身で「聞かないで」と告げていたから、それ以上は追求できなかった。
 
 ただ、沖田を選んだときの淡い笑みを見て、頭をがつんとやられたような衝撃を受けたのは確かだ。原田が向けてもらったことのない、静かな笑みだった。
 いつの間に、こんな表情をするようになったのだろう、と考えて、ここしばらく距離を取っていたことを後悔した。
 
 鬼と、人間。
 
 この二種族の違いは、何なのだろう。
 動体視力と、生命力と、力と。あとは?
 
 とりあえず原田が今できることは、より強くなって、なんの引け目もなく千鶴を守れるようにするだけだった。
 
 
 
 考えごとをしているときの稽古がうまくいった試しはない。
 これは原田の経験則でもあるし、他幹部連中も皆が頷くところだ。
 今回も例に漏れず、可哀相な隊士たちを叩きのめしたあげく、原田自身も腕を少し擦り切るという結果に終わり、彼はなんの実にもならなかった稽古に舌打ちをしたのだった。


 -------back / next