※注意※
沖田さんがお好きな方はご注意ください。
非常に暗い話です。流血表現もあります。
 
 
 
 
 
 

 



明日晴れるか 06
 
 
 
 航海も半分近くなったが、ここに来て沖田の熱は頻繁に高くなっていた。
 
 
 千鶴が沖田の傍に付くと、彼は朦朧と目を開いた。
 一応、千鶴が来たことには気づいたようなので、まず解熱効果のある薬湯を用意する。臭いもきつく、相当に苦い薬だったが、沖田はするりと飲み干した。
 いつもなら文句を言われて難儀するが、逆に今日は抵抗する気力もないのかと思うと、千鶴は複雑な気分になった。
 
 額に乗せた、濡れた手ぬぐいを幾度か換えてやりながら、茫洋とした時間が過ぎていった。
 沖田の呼吸が少し落ち着き、目を開けたのは、それから半刻も経った頃だろうか。
 
「………なに。その、柄」
 
 確かに、このぐるぐる巻きは目立つ。太さも倍近くになっていて――それでも千鶴は触りたくなかったが――不恰好だ。しかし、こんな時でも第一声が刀のことか、と千鶴は苦笑してしまった。
 そんな千鶴の反応がお気に召さなかったのか、沖田は熱に赤い顔をしかめた。
 そしてそのまま、千鶴の小太刀に手を伸ばして来る。
 
「――駄目ですっ!!!」
 
 思わずその手を払ってしまって。
 沖田の手は、力無く畳に落ちて、痛そうな音を鳴らした。
 千鶴は、はっとしてその手を取った。
「す、すみません!!」
 沖田は、ちょっと不服そうな顔をしつつ、千鶴の手を避けて、払われた手を布団に仕舞った。
「ひどいなぁ……僕の手がそんなに嫌?」
「そそそうじゃなく、そのですね、」
 正直に「柄に毒が入ってたんで触られたくないんです」と告げるのもどうかと、千鶴は逡巡した。第一、どうして毒だと分かったのか、どんな毒なのかなどと突っ込まれても困る。
 そんな千鶴を見て、沖田が薄く笑う。
 
 
「……毒でも入ってた?」
 
 
「!!」
 
 
 はっと顔を上げる千鶴に、沖田は今度ははっきりと笑った。
 
「ほんと、君はわかりやすいね。それじゃ当たりですって言ったようなものだよ」
「だ、だって……」
「あのね、君は気付いてなかったみたいだけど、君の小太刀、昨日から留め具がゆるんでたんだよ。
 それで今日見たらそんななってて……柄を外したら中から何か出て来た、ってところでしょ」
 
 確かに沖田は、昨日は少し調子がよかった。とはいえ、そんな細かいところを見ているとは、さすがというか何と言うか。
 さらに彼はにやりとして続けた。
 
「それとも何、柄を外したはいいけど、戻しかたがわからなくなっちゃって、とりあえず巻いて留めてるわけ?」
「……違います」
 確かに千鶴は刀に疎いが、さすがにそんなことはない。からかわれていると知りつつも憮然としてしまった。
「なんか、だんだん染み出して来たみたいで……怖いので」
「ふうん。
 でも君、それでどうするの。そんな刀で鍔競り合いできるとでも?」
「あ、いえ……」
 千鶴も、具体的にどうしようかというところまでは考えが及んでいない。
 柄の薬がヒトを羅刹化するなら、うかつに捨てて洗うわけにもいかない。薬だけ、江戸の自宅の庭に埋めてしまおうか、と半ば本気で考えていた。
 なんにせよ、しばらくこの小太刀を使うつもりはない。握るのは、恐ろしかった。
 
「じゃあさあ、代わりにこれ、持って行きなよ」
 
 さらり、と沖田が指し示されたのは、彼の脇差だった。
 千鶴は一瞬、何を言われたのか理解できず、きょとんとしてしまった、
 沖田の? ――刀を??
「ほら、どうしたの。いい刀だよ? 切れ味は、僕が保障する」
「……え、いや、そうじゃなくて」
 何か、重大なことを言われている気がする。
 見過ごしてはいけない、恐ろしいことを。それが何だか、すぐにはわからないのがもどかしい。
 笑う沖田が、そのまま薄く自嘲したのを千鶴は見た。
 屯所ではいくらか見ていたが、それ以来だから――その表情は随分久しぶりだった。
「君も、医者の真似ごとをやってるならわかるよね? 僕はもう、長くない」
「なに……言ってるん、ですか」
「君、ホント顔に出るよね。下手な慰めはいらないよ。
 もう、この頃は湯飲みを持つのもだるいんだ。胸も痛いし」
「そんな……」
 労咳が、喀血するほど進行していたら、当然胸も痛むに違いない。
 高熱が増え、体力も徐々に削られて、本人も死の臭いを間近に感じているのだろう。細くなったのは、手だけではない。足も、体全体も―― 一回り、小さくなってしまった。
 それでも、これだけ淡々と口に出されることが、切ない。
「いいんだ。死ぬのは構わないんだ。
 ただ――もう、近藤さんの役に立てない。それだけが心残りだ。
 だからさ、僕の刀、近藤さんの傍で使ってよ」
 いつも通りの口調でたたみ掛けられて、千鶴はすぐには反応を返せなかった。ぽかん、と馬鹿みたいに目を見開いたまま、しばし沖田の顔を見つめる。間近でよく見ると、綺麗だった栗色の髪が、少しぱさついているのがわかった。
 とたん、かあっと目頭が熱くなる。
「嫌、です」
 するり、と口をついて出たのは、それだけだった。
 沖田が、不服そうに唇をとがらせた。
「なんで嫌なの。僕の刀に不満があるとでも言うわけ? 今の君のそれより、よっぽど役立つと思うけどなあ」
「……そんな話じゃ、ないんです……!」
 千鶴は首を振る。上手く言葉にならないのが、苛立たしかった。
 
 何というか――沖田が刀を手放すこと、それ自体が怖いのだ。
 それだけは、あってはならない、と感じる。
 
 彼は臥せってからも刀の手入れを怠らない。滅多に使われない脇差も、鞘を払ったら、恐ろしいほどの冷たさを見せることを、千鶴は知っていた。
 それだけ刀を大事にしている人だから、簡単に人に渡すはずがない。
 渡せるようなものではないはずだ。
 そんな大事なものを、千鶴のような他人に渡すとき。

――それはつまり、沖田が生を放棄するときなんじゃないか――?
 
 千鶴は、ぐっと沖田を睨んだ。目に力を入れていないと、涙が落ちてしまいそうだった。
「そんなの、駄目、なんです!!」
 はっきりと拒んだ千鶴に、沖田は驚いたようだった。
 でも、千鶴も引けない。
 他の幹部たちだって、近藤だって、絶対にそんなことは望んでいない、と断言できるからだった。沖田がいなくて、代わりに脇差だけがあるなんて、そんな状況を誰が望むというのか。
 
「お願いですから、死ぬのは構わないなんて、言わないでください……!!」
 
 どうして、置いて逝く側の人々は、置いていかれる人間の気持ちがわからないんだろう。
 面倒な薬を調製するのも、睨まれても怒鳴られても傍についているのは、何のためだと思っているんだろう――治すためではなくて、看取るためだとでも、思っているんだろうか。
「嫌です、私は……! お、沖田さんは、みんなにたよ、頼られてて……いちばん組で、強くて」
 千鶴から見た沖田は、どこかひやりと怖くて、でも大切な仲間だ。こうして臥せっていたら心配だし、笑ってくれたら嬉しい。
 そんな人に、魂のようなものを淡々と託されて、はいどうぞと笑っていられるほど、千鶴は大人ではない。
「い、今がどんなでも……そんな、大丈夫、だって……
 また、一緒に戦えるって、み、皆、信じてるんですよ!!」
 舌がもつれて噛みそうになって、もうめちゃくちゃだ。
 駄々をこねるだけの子どものような事しか言えずに、千鶴は歯噛みする。
 その剣幕に驚いたのか、しゃくり上げかけて、どもったのがいけなかったのか、沖田は一瞬ぽかんとしてから軽く噴き出した。
 苦笑に近いながらも楽しそうな笑いに、真剣に言ったのに、と憮然とするしかない千鶴だったが、何を言ってもさらに笑われそうだったので黙っておいた。しかし、笑う沖田が、途中から喉を鳴らして咳き込み出したことに、さっと青くなる。
「沖田さんっ!?」
 痰が絡んだ様子の咳に、手ぬぐいを押し付ける。
 喉ではなく、深いところから咳が出ている、そういう音だった。
 口元を離れたときには、手ぬぐいは赤く染まっていた。
(私、馬鹿だ……)
 どんな話であっても、病人の枕元で、あんな大声を出していいわけがない。沖田を興奮させてはいけないし、声を出させようとしてはいけないのだ。安静にさせなければ――どうしてもっと、大人な対応が出来なかったんだろう。
 目の前の、血濡れの手ぬぐいをぎゅっと握り締める。それを見た沖田が顔をしかめたが、気にする余裕もなかった。
 どれだけ目に力を入れても、もう限界だ。
 熱いものが滴となって、千鶴の頬をすべった。
「……また、君はそんなに、泣いて……」
 今度ははっきりと苦笑を浮かべた沖田に、何とも返せずに、唇を噛み締めた。千鶴だって、泣きたくなどない。これでもよく我慢したつもりだった。
「――冗談、だよ……忘れて」
「……私なんかが使っても、どうせ、近藤さんのお役になんて、立てま、せんよ」
「そう……だね………まあ、期待なんて、してない……」
 言いながらも、沖田の視線が定まらなくなって来た。昏睡に落ちようとしているのだ。
「でも……君は……ちゃんと、ほかの、刀を……」
「はい……持ちます、から」
 苦しそうに眉根を寄せたまま寝入った沖田に、千鶴は黙った。
 額の手ぬぐいを濡らしなおし、水桶を持って立ち上がる。
 ぱっと出て、さっと水を換えて、気分も変えて戻ろう。熱さまし以外の薬も、調製したほうがいいかもしれない。
 
 
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 くず折れそうになる足を叱咤して、千鶴は廊下を急いだ。
 泣くな。
 絶対、泣くな。
 沖田の部屋から出た千鶴が、泣いていると知れたら、沖田の病状が思わしくないことなど一目瞭然だ。
 それは、新選組の士気を下げる。土方にも注意を促されていることだった。
 それに、沖田はまだ生きていて、ああして会話をして、時に笑顔を見せたりしてくれる。だから、自分も笑顔を返して、元気をあげるべきで―――泣いて出てくるなんて、本当に未熟者だ。
 もっと、他に言いようがあったはずじゃないか?
 
 
――『死ぬのは構わないんだ。』
 
 
 自嘲した沖田の顔が、消えない。
 
 あんなに簡単に。
 自分の死について、あんな風に、言えてしまうものだろうか。
 自分がいなくなって、周りがどう思うか――悲しむか、わかっていないんだろうか。
 
 一時的な弱気なら、別にいい。病気の時には、弱気になるものだし、励ましようもある。
 でも、あれはたぶん、違う。
 僕のぶんのご飯食べちゃっても構わないよ、というような、ごく自然に出てきた感想だった。それだけ、死はもう沖田の間近にあって、沖田はそれを受け入れている。
 
 ふと視界が揺らめいた。瞳の前に張った水の膜は、限界をこえて、ぽろりと一滴、流れ落ちた。
――あれだけ激しく出て行けと言われていたときよりも、ずっと胸が痛い。
 
(私の力をあげられたらいいのに。何の役にもたたず、ただ嫌悪される鬼の私よりも、沖田さんは色んな人に望まれているのに……)
 
 
 もういっそ水桶をどこかに捨てて、早く部屋に戻りたいという誘惑にもかられたが、独りの部屋に帰ったところで、この苦しさは消えない確信があった。こんなにも泣きたい気分になると、思い知る――――この船には、逃げ場がないことを。
 頑張っても、よくやった、と撫でてくれる手がない。
 泣いても、大丈夫か、とあの人の温かい声を聞かせてもらえない。
 
 千鶴は無言で、目の端をぬぐった。
 板張りの廊下は冷えて、足が痛かった。
 
 
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 そして。
 悪いことは続く、とはよく言ったもので。
 鳥羽伏見の戦で重症を負い、高熱に苦しむ山崎が遂に息をひきとったのは、この晩のことだった。
 
 
 
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