1−1.
同日、午後にさかのぼる。
その日、中等部・男子1組――笠井たちのクラスの最後の授業は、古文だった。
昼前の体育のせいか、居眠りしている生徒が多かったが、眼鏡をかけた白髪のおじいちゃん先生は、それを無視して授業を進めている。
「――こう、ここで、係り結びが成立しているわけです。ですので、この全訳は――」
彼は基本的に生徒に関心がないのである。居眠り常習犯の藤代が最後の礼のときですら起きなくても、彼は一度も注意したことがなかった。
俺、古文ってイヤ。今の日本語しゃべれんだから、別に昔の言語とかいらないし。と公言している藤代は、今日も真っ先に突っ伏して睡眠学習に徹していた。
(『今の日本語』、怪しいくせに、よく言うよ)
同室の笠井や、サッカー部1軍の面々は、主語と述語の結びつかない藤代語に、頻繁に悩まされているというのに。
老教師の眼が、眼鏡ごしにちらりと壁の時計を見やる。
だるだると授業を受けていた笠井は、つられて時計を見た。授業終了まで、あと6分ほどだった。
この老教師の古文は、とても眠たく、やる気が出ないと言われる割に、生徒からの評判は悪くない。主にその理由は、彼が授業をきっかり5分前に終わらせるためであるが、笠井は、ノートも意外と要点がまとまっていて解りやすいと、ひそかに思っている。それに、むやみに生徒を指さないところもいい。問題は、淡々とした声がひたすら眠気をさそうことだけだ。
(・・・・・・にしても、藤代は寝すぎ!)
笠井の目の前で、細身の背中が気持ちよさそうに上下している。何の因果か、藤代の真後ろの席に位置する笠井が、授業中に振り返って話しかけてくる藤代の椅子を蹴っ飛ばしたことは、1度や2度ではない。
ガッ!
笠井は、いつものように藤代の椅子の足を蹴飛ばした。
藤代は、机に伏せたまま、無反応だ。
そのやりとりを見ていた、藤代の隣人・飯島孝司が軽く笑った。笠井も苦笑を返す。
今日は非常に天気がよく、窓際の笠井と藤代の席はぽかぽかと暖かい。日差しがまぶしくて、ノートが取りづらいくらいだ。こんな日の彼の眠りは、例外なく深いから、放っておいたらまた礼をせず寝続けるに違いない。こうして早めに覚醒を促しておくと、礼のときに皆が席を立つ音で起きるのだ、と笠井は学んでいた。まったく、藤代といると無駄な知識が増えていく気がしてならない。
老教師が、教科書を閉じた。
「はい、では終わろう。次回も、品詞分解の解説からですね」
笠井が藤代のいすをもう一度蹴って、視線を時計に戻すと、やはりちょうど5分前だった。
「起立」
古文係の声に、生徒たちがだるそうに立ち上がる。教室中のいすがガタガタ音を立て、藤代がようやく机から顔をあげた。飯島が何かをこらえる表情でそっぽを向いたところを見ると、顔になにか跡でもついているんだろう。笠井がダメ押しでいすを蹴ると、藤代は、半分閉じた眼をこすりながらのろのろと立ち上がった。
「礼!」
全員が老教師に黙って頭を下げた。
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先生が出て行くと同時に教室は騒がしくなった。これから帰りのHRまでの短い時間は、抑圧から解放された生徒が一番騒ぐ時間帯である。
笠井は、机のわきにかけたカバンを取って、さっさと帰り支度をはじめた。クラスメイトたちも、口を忙しく動かしつつ、机の中からいるものを選り出している。
「笠井、もしかしてまた蹴った?」
笠井にむかって、やっと完全に覚醒した藤代が口を開いた。その顔には想像通り、くっきりとノートの角とシャーペンの跡がついている。
「うん、藤代、記憶あるの?」
「いや、ゼンゼン。でも俺、この時間自力じゃ起きれないから」
ありがとなー、と言って藤代はニカっと笑った。
笠井の行動を余計なお世話だと思う人間もいるだろうが、藤代は大抵の親切には(多少迷惑でも)笑顔を返せるタイプだった。ただしその表情は豊かで、あまりありがたくなかったときは正直に苦笑になる。しかしそういうときは、冗談めいた言葉を使って文句を言うので、藤代相手に気まずくなることは少ない。相手の気持ちを受け取ろうとする姿勢が見えるのだ。
藤代は普段、思ったことは飾らずそのまま言うタイプだ。
そのせいで部活では、天才ストライカーは無神経だと陰口をたたく人物が多いことを笠井は知っている。主に、藤代が入ったせいでレギュラー落ちした先輩とその友人、それと2軍の先輩が、しょっちゅう聞こえよがしに言っているからだった。
しかし笠井は、別に気配りができないわけじゃないんだろう、とこの1ヶ月ほどで気づいた。本当にまずいことは、――意識してか無意識かはわからないが――口にも態度にも出さないのである。少なくともクラスでは、彼は潤滑油として動き回っている気がする。
笠井がそんなことをつらつら考えているうちに、藤代は教科書とノートをぐちゃぐちゃの机に突っ込んだ。机の横からカバンをとり、そこには筆記用具だけ入れる。が、数学の宿題プリントのことを思い当たったらしく、机からはみ出しているわら半紙をひきぬいた。
ビリビリ!
という音で、笠井はそれらが破けたのを知った。当の藤代は、全く頓着せずに続けて別の紙を引っ張りつつ、顔だけ笠井のほうに向けた。
「な、笠井笠井」
「んー?」
「今週は渋沢さん、掃除ないんだって!」
つねに落ち着きの足りない藤代が、いつもに増してうずうずしている。一秒でも早くグラウンドへ行って練習したいのだと、体全体で表しているのが笠井にはよくわかった。
「てことはさー、早く行ったらフリー・キックの相手してくれるかなあ」
予想通りのセリフに思わず笑ってしまうと、藤代も意味がわからないながら、つられてにへら、と笑った。
「うん、藤代、ホントに渋沢先輩好きだよね」
「何をいまさら!!」
クラスの中でも特にうるさい男、藤代が力いっぱい公言するせいで、渋沢の名前はクラスの中で有名になりつつある。
(ていうか、そういえば今週はお前が掃除じゃん……)
うっわーマジで早く行きてえ!! と叫ぶ藤代に笠井が突っ込む前に、さくさく帰り支度を終えた飯島が口をはさんだ。
「渋沢さんってダレだっけ?」
「イッコ上のセンパイ。めっちゃめちゃおもしろいキーパーなんだよ」
「おもしろいじゃなくて、上手い、だろ」
笠井が訂正すると、藤代は、えー?と口をとがらせた。
「上手いだけじゃないんだって、渋沢さんは。一緒にやってて面白いの!! ホント、ワクワクすんだぜ? この人相手だったら、俺はどうすればゴール奪れる?って。弾かれても、ああちきしょう次こそ!ってさ。とにかくもー、イイんだよな!!」
満面の笑みで説明されても、彼から直接ゴールを奪いに行くような機会のない笠井には、なんとなくしか理解できない感情だ。どうやら飯島も腑に落ちなかったようで、首をかしげて口を開いた。
「藤、それ相手が上手いから面白い、ってんじゃないわけ?」
「違うんだって!!まあ上手くなきゃこんなに面白いとは思わないけど。上手いだけじゃなくて、あの存在感とか、一瞬の攻防とか……あーくそ!!上手く言えないんだけどさ!!」
「何本シュートとめられても、悔しいっつうより楽しくなっちゃうんだよね、藤代は。で、渋沢さんが相手じゃないとそこまでわくわくしない、と」
笠井が助け舟を出す。飯島はわかったようなわからないような顔をしていた。
「んー、そういうもんなの?サッカーって。あ、そうだ思い出した渋沢サン、あの人だろ」
「ナニ、あの人って」
「えーとアレアレ。金曜の放課後に、フェンス越しに告られてた茶髪の大きい人っしょ。優しい感じの」
優しい・大きい・茶髪、とくれば、かなり本人である確率が高い。普段の大きくてのっそりした感じの動きからは、フィールドでの機敏さは想像できない。そのギャップと、あの柔らかな笑顔とにころりとやられる女の子の、なんと多いことか。
藤代が、目を輝かせて机から身を乗り出した。
「え、飯島それホント? すーげえ、またかよあの人」
「やっぱ多いことなん? 断り慣れてるなとは思ったけど」
「ていうか告ったの誰? うちの学年? オレ知ってる子?」
「はー?? 藤、なんなのお前、マジ食いつきすぎだから!!!」
飯島が爆笑するのにつられて藤代も少し身を引き、笑いまじりに返した。
「だってあの人、男の俺から見てもカッコいいじゃんよ!!」
「ハイハイ、藤がその渋沢センパイを尊敬してんのはもうわかったから。つうか、聞いてないの?」
お前ら、という飯島の視線を受けて、藤代と笠井はちらりと目を合わせた。藤代が首をかしげ、笠井は首を横に振る。なんのこと、笠井知ってる?さあ?
「マジ知らない? いや、告ってたの、たぶん三沢だと思うんだよね。あの子サッカー部のマネっしょ?」
「三沢って、三沢亜紀?? マジなら、たしかにマネージャーだけど、飯島って三沢と知り合い?」
男女が完全に分かれている武蔵森では、同学年とは名ばかりで、会う機会がほとんどない。藤代も笠井も、サッカー部の子と、委員会の子しか顔と名前が一致しない。
「知り合いっつうか、女子1組に友人がいるから、そこ情報。ショートで天パで、背は低めで、ちょっと色黒の。わりとハキハキしてるとか」
「それは確かに、三沢っぽいね・・・・・・」
藤代と笠井は、今度こそ顔を見合わせた。
二人と同時に入った1年生のマネージャーは三人。うち二人は、さすがに表立って声援を飛ばしたりはしないものの、世話をする対象によって態度をころころ変えるらしく、しょっちゅう3年生のマネージャーに怒られては、陰口をたたいている。仕事の遅さと陰口のひどさに、ついこの間、相崎キャプテンが静かにキレていた。
最後の一人、三沢亜紀は比較的まじめに仕事をするタイプで、皆からも認められつつあったのだが。
土曜の練習の欠席は、そういうことだったのか、と笠井は納得し、そのときの3年生たちの態度にも合点がいった。
「たぶん3年の先輩は気づいてたんだろうね。無断欠席に対して、また今年もかよ、的な流し方じゃなかった?」
「ああ、ぽいよな。やっぱ毎年こういうことあんのかな? どうしよ笠井、俺らの代、まともなマネージャーいなくなってねー?」
「2、3年にマネージャーが一人ずつしかいないわけがわかった気がするよね」
たぶん、毎年似たような感じでマネージャーが減っていくのだろう。他の女子から厭味・妬みを言われるという話も、聞いたことがある。
3年のマネージャーは、部員(それも、2軍の)の彼女である。2年のマネージャーは、彼氏がいるとは聞いていないが、非常にさばさばしていて仕事のできる人である。てきぱきしすぎていて、男には敬遠されるが、同性からの支持は非常に篤いらしい。
贅沢な悩みだと言いたげな飯島を無視して(彼の所属する柔道部には、マネージャーなんてものは存在しない)、笠井と藤代はため息をついた。
ちょうどよく担任が入ってきてHRが始まったため、飯島から文句が出ることはなかった。
笠井がやる気のカケラもなく担任の話を聞き流していると、前で藤代がごそごそと始めた。さきほどしゃべってしまった分、帰りの支度が終わっていないのである。そのうきうきした後姿からは、ついさっきマネージャーの件でため息をついた様子なんて、想像もつかない。
……まあ、藤代にとって大事なのは、渋沢さんとボール蹴ることだけだもんな。
笠井は軽くため息をついた。
一分一秒でも早く部活を始めたい、始められればオール・オッケー人間な藤代とは違って、笠井は、今日はマネージャーが誰もいないだろうというのが憂鬱だった。ただでさえ二軍にはマネージャーの手が行き届かないというのに、一人足りなくなったなら、自分たちにドリンクを配ったりするのは三軍の面々になるかもしれない。もちろん・男だ。何が悲しくて疲れて汗臭くなった体を、汗臭い男の手から受け取ったタオルで拭かなければならないのか。別に誰も、優しいオンナノコの微笑と励ましがほしいなんてことは思っていないが(欲しいならこんなクソキツイ部活はやってない)、男の汗は断固お断りだ。本当に本気で遠慮したい。
タオルもドリンクも、変に気を使わずに、どこかにまとめて置いてくれればそれでいいのに、というのが二軍内でのひそかな意見だったが、武蔵森の無駄に伝統ある序列が、それを許してはくれないのだ。一軍の手助けはマネージャーが、二軍の手助けは主にマネージャー、その補佐を三軍が、三軍は自分たち自身でどうにかする、というのが不文律なのだと、入学1ヶ月の笠井にもとっくにわかっている。
藤代は、笠井よりそういうことに疎い。彼には一軍以外のルールを知る必要がないからだった。それが一概にいいことなのか、笠井にはわからなかった。
とりあえずその藤代は、今週の掃除場所が体育館のトイレ(臭くて汚い。モップをかけるので時間がかかる)だと知ってうなだれていた。
(……ざまーみろ?)
なんとなくそう思ってしまうあたり、自分は性格が悪いんだろうか、とも思ったが、笠井は開き直ることにした。
藤代誠二という生き物を相手にするときは、多少の強気がなければ相手のペースに飲まれてしまうのだと、とっくに理解していたからだった。
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その日の放課後、部活ではいつもより少し低いテンションの練習風景が、くりひろげられてようとしていた。真面目なマネージャーが減る話は早くも部員全員に余さず伝播し、二軍三軍を大きく落ち込ませたのだった。
それを尻目に、いつもどおり、楽しそうに動きまわって体を温めているものが数人、もくもくとストレッチするものがまた数人――という具合に、おおむねいつも通りな一軍では、いつもより眉間の縦ジワが増えているのは、3年幹部と2年学年長、というごく数人だけだった。
縦ジワ組の一人である2年学年長・渋沢克郎は、生気なく普段より多い雑用をこなす3軍を見、すでに練習による汗をかき始めている一軍の面々を見て、ふと相崎キャプテンと顔を見合わせた。そのまま二人、同じように苦笑してしまい、3年の他のメンバーがそれを見て顔を背けた。
笑い顔そっくりすぎてキモい、とその3年が呟いたのを耳ざとく聞きつけた相崎は、そいつの背中に蹴りをいれて向こうに追いやりつつ、渋沢を呼び寄せた。
「あのさ、渋沢。マネージャーを足そうと思ってる」
「はい。自分もそれがいいと思います」
「だろ? ったく、1軍の他の奴らも、もう少し空気読めればなー」
渋沢としても、部活の煩雑なことは2軍以下・マネージャーに任せっきりはいかがなものかと、つねづね思っていたので、これには大きくうなずいた。相崎が、それを見て目元を弛める。目じりによった笑い皺が、その人柄をよく表現していた。
相崎は、渋沢の頭に、ぽん、と手を置いた。――基本的に人より大きい渋沢には、めったにない経験だが、相手が相崎であれば、悪い気はしない。相崎が、彼より15センチも背が低いとしても、だ。
「よし―――集合!」
大きく息を吸った相崎が、大きくはないが、よく響く声が、一瞬で部活全体を縛る緊張感を作った。
渋沢は、この瞬間が好きだ。
バラバラと走って集まる部員の前の相崎は、笑い皺も消え、ただ絶対的なキャプテンだ。
「部活をはじめる前に聞いてくれ。マネージャーの三沢が、本人の希望で、今日限りで退部する」
部員たちは皆、意味ありげに目を見交わした。が、口を開くものはない。キャプテンの作る、張りつめた空気は、ちょっとの動揺では揺るがない。
「しかし、そうすると1年生のマネージャーが減ってしまう。そこで、マネージャーを再募集することにした。条件は、1年生であること、それから部員の知り合いであること」
この言葉には、微かなざわめきが波のように広がった。特定の部員の知り合いを加えることは、避けるのが通例だったからである。多くが、疑問を持ってキャプテンを見つめたが、彼はそれを完全に黙殺した。
「なぜなら、それが第一次の面接になるからだ。知ってのとおりサッカー部のマネージャー希望は後を絶たないが、それをいちいち俺が面接する時間はない。俺たちの本業は、練習だからだ。だから、皆に、人数を絞るのを手伝ってもらおうと思う。
仕事をする気があるか、どこまでサッカーについて知っているか・・・・・・よく知った上で勧誘してくれ。皆の見る目に期待する」
(イコール、やる気のないヤツは寄越すなよ、なわけだな)
今の言葉は、勘ぐれば現1年マネージャーへの強烈な皮肉だ。渋沢は、彼女らがいないことを確認しようと、周囲に軽く目を走らせた。と、視界の隅で、相崎が渋沢に向かって口の端を上げる程度に笑んだ。――彼は当然、この場からマネージャーを離すような手をなにか打ったに違いなく、渋沢は内心舌を巻いた。
「それで、最終的には俺を含めるレギュラー陣に、コーチも混ざっていただいて第二次の面接をする。期限は、明後日の放課後。場所はまだ決めていないが、練習後には告知する。グラウンド付近になるだろうな。・・・・・・何か、質問は」
見回す相崎に、面接時間や場所、その間の練習などに関する質問がぱらぱらと出て、その場はすぐに散開となった。
渋沢がキーパーグローブを付け直す横を、藤代が、興味なさそうにあくびをしながら走り去ったのが、妙に印象的だった。
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